VOL.59 肉を切らせて骨を断つ。怪物を飲み込む『死海』の渦
血の味がした。
代々木競技場の天井の強烈なライトが、揺れて、滲んでいる。
マットに大の字に倒れた悠馬の口から、赤黒い血がキャンバスに滴り落ちた。
全身の骨が軋み、呼吸をするだけで肺に鋭い痛みが走る。
「立て……っ! 立つんだ、悠馬ァッ!!」
リングサイドから身を乗り出し、喉が裂けんばかりに叫ぶアシュラの声が、遠いノイズのように鼓膜を叩いていた。
(……無理だ。あんなもの、受け流せるわけがない)
悠馬は薄れゆく意識の中で、冷徹な現実を突きつけられていた。
火浦健吾という男のパワーは、もはやプロレスの技術云々で語れる次元にない。
スポンジがいくら衝撃を吸収しようと、隕石が落ちてくれば粉々に吹き飛ぶのと同じだ。
もっと卑近な例で言えば、火浦は腹が空いたヒグマみたいなものだ。
火浦を人間だと思うからそのパワーに驚かされる。
「無力化」という悠馬の防衛戦術は、火浦のヒグマのような理不尽な質量の前に完全な破綻を迎えていた。
「どうした、若造。もう終わりか? 東プロの看板なんて、その程度のペラペラな板切れなんだよ」
火浦が、倒れた悠馬を見下ろして獰猛に笑う。
その言葉が、悠馬の胸の奥で燻っていた青白い炎に、油を注いだ。
(……このままじゃ、終われない。夏南さんたちが、僕の勝利を待っているんだ)
悠馬はロープを掴み、ガクガクと震える両膝に無理やり力を込めて、立ち上がった。
その姿を見て、観客のボルテージは上がった。
しかし、悠馬の顔面は血に染まり、足取りは覚束ない。
だが、その瞳の奥だけは、尋常ではない冷たい光を放っていた。
悠馬の脳内で、高速の思考が駆け巡る。
――受け流して「ゼロ」にすることが不可能なら。
――その理不尽なまでの巨大な推進力を、そっくりそのまま「致死量のダメージ」として逆利用するしかない。
「まだ心が折れてねえのか。いいだろう、その生意気な首、根元から刈り取ってやる!!」
火浦が吼えた。
彼が選択したのは、帝国プロレス最強のフィニッシャー。体重125キロの全質量とトップスピードを乗せて放つ、死の突進『インペリアル・ラリアット』。
ーービースティー冬城を死にいたらしめた、今まで火浦が封印していた技だった。
火浦が対角線のロープに走り、反動をつけてリング中央へ向かって猛烈なスピードで突進してくる。ドドドォォォン!という地鳴りが、代々木競技場全体を揺らした。
逃げ場はない。まともに食らえば、間違いなく首の骨が折れる。
だが。悠馬は逃げなかった。
「……来いッ!!」
悠馬は両目をカッと見開き、自ら火浦の懐へ向かって「一歩、前へ踏み込んだ」のだ。
「馬鹿が、死ねェッ!!」
火浦の丸太のような右腕が、悠馬の喉元を吹き飛ばさんと迫る。
コンマ数秒の世界。
その瞬間、悠馬は防御を完全に捨て、自らの両腕で火浦の右腕に深く絡みついた。
そして、直撃する刹那――自身の「重心」を、急激に真下のキャンバスへと落とし込んだ。体幹を極限まで使った自重の急降下。
それは、プロレスの物理法則を極限まで研ぎ澄ませた、捨て身のカウンターだった。
猛スピードで前進する火浦の巨大な質量。
その足元に突然、悠馬の肉体という「絶対に動かない強固な支点」が出現したのだ。
「なっ……!?」
てこの原理。
行き場を失った火浦の巨大な運動エネルギーは、悠馬の身体を支点にして、前方へ、そして上空へと跳ね返った。
体重125キロの巨獣が、自らの突進力によって空中に高く放り出される。
そして、空中で一回転した火浦の巨体は、後頭部と肩口から、自らのパワーの倍の威力となってマットに無惨に突き刺さった。
ドゴォォォォォォォォンッ!!!
爆発音のような衝撃音が響き、リングのキャンバスが波打つ。
火浦の肺から「ガハッ!」と空気が抜け、その目が驚愕とダメージで見開かれた。
「……沈め」
着弾の衝撃すら利用し、悠馬は一瞬の隙も与えなかった。
投げ落とした体勢のまま、空中で絡め取っていた火浦の右腕を決して離さず、瞬時に自分の両脚を火浦の首元へ滑り込ませる。
新必殺技、複合関節技『デッド・シー(死海)』。
「ぐ、おォォォォッ!!」
火浦の顔が一瞬にして紫に染まる。右腕の関節を破壊されんばかりの角度で極められ、同時に首を両脚の万力で締め上げられる脱出不可能な蟻地獄。
だが、流石は帝プロの頂点。火浦は白目を剥きかけながらも、その怪力で悠馬をぶら下げたまま、強引に立ち上がろうと咆哮を上げた。
「まだだ……俺は、帝プロの……ッ!」
怪物の意地。悠馬の身体が宙に浮きかける。
しかし、悠馬は冷徹だった。
火浦が立ち上がろうとするその動きすらも計算に入れ、自らの腰の角度をミリ単位でズラし、火浦の頸動脈への圧迫をさらに強固なものへとアジャストしたのだ。
「……ッ、あ……」
脳への血流を完全に遮断された火浦の動きが、ピタリと止まった。
太い腕から力が抜け、宙を掻く。
そして次の瞬間、樹齢数百年を誇る大木が根元からへし折れるように、火浦の巨体はゆっくりと、力なくリング中央へと崩れ落ちた。
ドサァッ。
火浦の目は完全に白目を剥き、その巨大な右手が、ピクン、ピクンと痙攣するようにマットを三回叩いた。
「そ、そこまでェェェッ!!」
レフェリーが慌てて割って入り、試合終了のゴングを要請する。
カン、カン、カン、カン、カン!!
割れるような大歓声が、代々木競技場を包み込んだ。
東京プロレスの一若手が、帝国プロレスの絶対的な怪物を、自らの頭脳と捨て身の覚悟で完全に沈めた瞬間だった。
「勝者……悠馬ァァァッ!!」
アナウンスが響く中、悠馬は技を解き、ゆっくりと立ち上がった。
血と汗にまみれた顔で、彼はロープ越しに、アシュラと力強く拳を突き合わせる。
そして、悠馬はリングを降りる直前、花道の奥――次なる死闘へ向けて出番を待つ、一人の少女の姿を見据えた。
冬城夏南。
彼女は、パーカーのフードを被ったまま、悠馬の勝利を真っ直ぐな瞳で見つめていた。
悠馬は何も言わず、ただ一度だけ、深く頷いた。
『僕の戦いは終わりました。あとは、頼みましたよ』
――その無言のバトンを受け取り、夏南もまた、
静かに頷き返す。
男子プロレスの頂上決戦は、東プロの大逆転勝利で幕を閉じた。
だが、夜はまだ終わらない。
仲間を救うため、そして己の魂を取り戻すため。冬城夏南の、すべてを懸けた時間無制限のデスマッチが、いよいよ幕を開けようとしていた。




