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プロレス・ガール  作者: Tohna
増長と没落
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58/63

VOL.58 怪物の質量と、無力化の限界

 国立代々木競技場に集まった一万数千人の大観衆が放つ熱気は、地鳴りのような唸りとなって、リングを包む空気を激しく振動させていた。


 帝国プロレスと東京プロレスの全面対抗戦『NGP』。


 セミファイナルに組まれたこのシングルマッチは、戦前から「もっとも残酷な処刑になる」と囁かれていた。


 業界の頂点に君臨する巨大戦車・火浦健吾に対し、東プロが送り込んだのは、これまでタッグ戦線でのゲームメイクや裏方仕事に甘んじていた「持たざる若武者」悠馬だったからだ。


 確かに地方での興行では目立つ活躍をし始めていたが、それだけのことで今までの評価が覆るほどプロレスファンは甘くなかった。


 悠馬は「噛ませ犬」程度の戦前評価に過ぎなかったのだ。


 アシュラが、神妙な面持ちで悠馬の背中にガウンを掛け、リングサイドのセコンドエリアに陣取る。


 その鋭い眼光は、対角線上の赤コーナーで圧倒的な威圧感を放つ火浦をじっと睨み据えていた。


 高級スーツを脱ぎ捨て、黒いタイツに身を包んだ火浦の肉体は、まるでギリシャ彫刻の岩塊がそのまま動き出したかのような、異様な筋肉の隆起を見せていた。


 身長192センチ、体重125キロ。その質量自体が、すでに凶器だった。


「カーン!!」


 運命のゴングが鳴り響いた。


 悠馬は低く構え、ジリジリとリング中央へ進む。


 だが、対峙した瞬間に理解した。


 戦前のシミュレーションなど、この怪物の前では何の役にも立たないということを。


 火浦が一歩を踏み出した瞬間、厚さ数センチのキャンバスを通じて、悠馬の足の裏にまでドスンと重い振動が伝わってきた。


「オラァッ!」


 火浦が地を這うようなスピードで突進してくる。ヘビー級とは思えない爆発的な踏み込み。


 悠馬は瞬時に反応して距離を取ろうとしたが、火浦の巨大な手が生み出す風圧が顔面を掠めた。


 直後、火浦の放ったショルダータックルが、悠馬の胸板を捉える。


 ドゴォォン!!


 まるで軽自動車に正面衝突されたかのような衝撃が悠馬を襲った。


 受身を取る余裕すら与えられず、悠馬の身体は文字通り宙を舞い、数メートル先のマットへ激しく叩きつけられる。


「ぐはっ……!」


 肺の中の酸素がすべて強制的に絞り出され、視界がチカチカと白く明滅した。


 間髪入れず、火浦が這い上がろうとする悠馬の髪を掴んで引きずり起こす。


 その太い腕が悠馬の胴体を抱え込んだ。


 フロント・スープレックス。ただの投げ技ではない。火浦は自らの強靭な背筋と大腿四頭筋のバネを爆発させ、悠馬の身体を信じられないほどの高角度まで持ち上げた。


 ドスゥゥゥン!!


 脳天からマットに突き刺さるような、危険な角度の投げ。悠馬の首と背骨が悲鳴を上げる。


 観客席からは悲鳴に似たどよめきが沸き起こり、帝プロのセコンドからは「よし、そのまま圧殺しろ!」と怒号が飛んだ。


 火浦の攻撃は、一つ一つが重すぎる。


 悠馬が開発した新必殺技『デッド・シー』を仕掛けるための「導線」を作ろうにも、技を仕掛けるための五体そのものが、一撃ごとに破壊されていく感覚だった。


「どうした、東京プロレス! 威勢がいいのは調印式だけか!」


 火浦がフットスタンプ(踏みつけ)を悠馬の脇腹に容赦なく踏み下ろす。


 ドス、ドスと、肉が潰れる嫌な音が響く。悠馬はマットをのたうち回り、防戦一方の泥沼に引きずり込まれていった。


 意識が朦朧とし、セコンドの静止の声すら遠のいていく。

「――おい! 目を覚ませ、悠馬!!」


 リングサイドの床を、手の平が破れんばかりの勢いで激しく叩く音が聞こえた。


 アシュラだ。東プロのエースは、身を乗り出して悠馬に向かって絶叫していた。


「忘れたのか! テメエが今やって生き残ってきたかを! 倒そうとするんじゃねえ、まずはお前の本来の『持ち味』を出すんだ!」


 アシュラの怒声が、悠馬の脳の奥底に眠る冷徹な理性を叩き起こした。


 ――本来の持ち味。


 そうだ。僕はアシュラさんのような天才じゃない。火浦のような怪物でもない。


 僕のプロレスは、相手の光を消し、ペースを乱し、泥沼に引きずり込む「防衛戦術」だ。最初から真っ向勝負で押し負けるのは当然だった。


(……脱力だ。夏南さんにも教えた、あの感覚……!)


 悠馬の目から、焦燥が消え、冷たい光が戻った。


 火浦が再び悠馬を引き起こし、とどめを刺すべく右腕を大きく振りかぶった。


 強烈なエルボースマッシュが悠馬のアゴを打ち抜こうと迫る。


 だが、今度の悠馬は倒れなかった。


 悠馬はインパクトの瞬間、あえて全身の筋肉の緊張を完全に解いた。


 首と肩の関節に「遊び」を作り、火浦の打撃の軌道に合わせて自らの頭部をわずかに後ろへ受け流したのだ。


 打撃の威力は、硬い物体に衝突した時に最大となる。


 しかし、今の悠馬の肉体は、まるで衝撃を吸収する極厚のスポンジのようだった。


「……ぬ?」


 確かな手応えがなかったことに、火浦がわずかに目を見開く。


 好機。悠馬は火浦の右腕が伸びきった一瞬の隙を見逃さず、するりと火浦の懐へ滑り込んだ。


 火浦が左腕で悠馬を払い除けようとするが、悠馬はその腕の動きの「ベクトル」を読み、自らの身体をコマのように鋭く反転させてその力を前方へと受け流した。


 レスリングにおける「スピンビハインド(バック取り)」の応用。


 気づけば、悠馬は火浦の巨体の背後に回り込んでいた。


 すかさず火浦の左膝の裏へ、正確無比なローキックを叩き込む。パチン、と乾いた音が響き、火浦の巨体がわずかに前傾した。


「この、チョロチョロと……!」


 苛立った火浦が振り返りざまに水平チョップを放つ。胸骨を叩き割るような一撃。


 しかし悠馬は、その腕が迫る直前、自らの重心を急激に真下へと落とした。


 夏南がアイドルを目指していた頃、彼女が悠馬を誘って一緒にダンスのステップを研究して得た、体幹のブレない高速のダッキング(屈み込み)。


 風を切る音とともに火浦の太い腕が空を切り、その勢いのまま火浦の体勢がわずかに崩れる。


 悠馬はその隙を見逃さず、火浦の軸足の足首に自らの足を引っ掛け、前方へと鋭く体重を浴びせた。


 ドサリ。


 ついに、あの重戦車・火浦の巨体がマットに転がった。


 会場から、地鳴りのような大歓声が湧き上がる。


「よし! いいぞ悠馬! 相手の良さを消していけ!」

 アシュラが拳を突き上げて叫ぶ。


 悠馬の無力化戦術が、ついに機能し始めたのだ。


 火浦がどれほどの大技を繰り出そうとしても、悠馬はそのすべての威力を、事前の体捌きと脱力、そして関節の遊びによって「ゼロ」に還元していく。


 グラウンドに移行しても、悠馬は火浦のパワーが発揮できない絶妙な角度でポジションをキープし、地味ながらも確実に火浦のスタミナを削っていった。


 火浦の顔に、明らかな焦りと「攻めあぐね」の色が浮かび始める。


(いける。このまま泥沼にハメ殺して、最後に『デッド・シー』で仕留める……!)


 悠馬が確かな勝機を確信した、その時だった。


「――ふざけるなよ、小僧」


 火浦の口から、低く地を這うような声が漏れた。


 次の瞬間、火浦は技術もクソもない、ただの理不尽な「質量」の暴力を発動させた。


 下から悠馬の胴体を掴むと、ポジションの有利不利など無視して、強引にその腕力だけで悠馬を跳ね飛ばしたのだ。


 悠馬が体勢を立て直そうと着地した瞬間。火浦はロープにも走らず、ただ真っ直ぐに右拳を突き出してきた。


 大技ではない。ただの、直線のナックルパート(パンチ)。


 悠馬は瞬時に、先ほどと同じように脱力してその威力を受け流そうとした。


 しかし。


 バキキィンッ!!!


 鈍い衝撃音が代々木競技場の天井まで響き渡った。


 悠馬の身体が、まるで弾丸のように後方へ吹き飛び、ロープに激しく激突して跳ね返り、マットに沈んだ。


「が、は……っ、あ……」


 悠馬の口から、どっと血が溢れ出た。


 受け流せなかった。火浦の放ったその一撃は、これまでの打撃とは次元が違っていた。


 脱力しようが、関節の遊びを作ろうが、そんな「技術の許容量」を遥かに超越した、圧倒的なまでの「破壊力」の塊。


 骨を、肉を、細胞を、その質量ごと叩き潰す理不尽な暴力。


「そうは問屋が卸さねえんだよ、東プロ。小細工で怪物をハメ殺せると思うな」


 火浦は息一つ乱さず、ゆっくりと歩み寄ってきた。


 その一歩一歩が、悠馬の絶望を刻むカウントダウンのようだった。


 一発のパンチ、一発のキック。


 それが今までよりも遥かに強力になり、悠馬が積み上げてきた「無力化」の戦法は、その圧倒的なパワーの前に、文字通り粉々に粉砕されてしまった。


 再び訪れる、圧倒的な劣勢。


 マットに伏したままピクリとも動けない悠馬を見下ろし、火浦が獰猛な牙を剥いた。


 決戦の夜、東京プロレスの若武者は、本物の怪物の「本気」という名の絶望の前に、再び引きずり下ろされようとしていた。

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