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プロレス・ガール  作者: Tohna
増長と没落
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54/63

VOL.54 摩天楼の底の現実。道化の末路と後悔の涙

 AJGPWの巨大で近代的な道場は、江戸川区のボロ道場とはすべてが違っていた。


 眩しいほどのLED照明、埃一つない真っ白な壁、最新のウエイトトレーニング機材、そして高級ホテルのような清潔なシャワールーム。


 しかし、芳子たちがその「夢の舞台」で与えられた現実は、選ばれたスターへの歓待などでは決してなかった。


「おい、田舎者。シャワールームの排水溝にまだ髪の毛が詰まってるぞ。目ぇついてんのか?」


「……はい……すんません……」


 移籍から一週間。


 芳子と二人の練習生は、リングに上がることすら許されていなかった。命じられるのは、広大な道場の床磨き、何十人もの先輩レスラーたちの汗まみれの練習着の洗濯、そしてトイレ掃除といった雑用ばかりだった。


 少しでも口答えをすれば、「新人の胸を貸してやる」と称した過酷なスパーリングという名の公開リンチが始まる。


 AJGPWの若手レスラーたちは、芳子の関節を容赦なく極め上げ、タップしても決して技を解かなかった。そこにあるのはプロレスの厳しい指導ではなく、圧倒的な実力差を見せつけるだけの陰湿ないじめだった。


「話が違うだす……おらは、メインイベントの試合に出るために来たのに……」

 誰もいない深夜のシャワールーム。強い洗剤の匂いが鼻を突く中、一緒に移籍してきた練習生の一人が、ついにデッキブラシを放り投げて泣き崩れた。


 芳子も、冷たいタイルの上で雑巾を握る手を、血が滲むほど強く握りしめていた。


 屈辱だった。こんなはずではなかった。自分は圧倒的な強さで、みんなから拍手喝采を浴びるはずだったのだ。


「ゆかり……そうだ、ゆかりに頼んで、黒田本部長へ話をつけてもらうだす。こんなの絶対におかしいだす……」


 芳子が充血した目を上げた時、シャワールームの入り口に、一人の女が立っていた。


 真新しい、帝国プロレスのロゴが入った黒いスタッフジャンパー。手にはバインダーを持っている。


 友部ゆかりだった。


「ゆかり! ちょうどよかった、これはいったいどういうことだすか! おらたち……」


「気安く呼ばないでくれる? 福田『選手』」


 ゆかりの口調は、氷のように冷たく、見下すような響きを持っていた。あのおどおどした練習生の面影は、微塵もない。


「ゆかり……あんた、その服……それに、選手って……」


「私はレスラー志望なんかじゃありませんよ。帝国プロレス営業部の、友部ゆかりです。黒田本部長の特命で、目障りなスガハラの新団体を『内部から解体する』ために潜り込んでいただけですから」


芳子の頭の中で、足元のタイルが崩れ落ちるような激しいめまいが起こった。


「最初から……プロレス小町を潰すためだったんだすか……?」


「ええ。オーディションで即席のチームになったあなたたちの中で、誰が一番扱いやすいか観察していました。そして、一番劣等感が強くて、おだてればすぐに天狗になる『馬鹿』があなただった。だから私が徹底的に持ち上げて、孤立するように仕向けたんです」


 ゆかりは、心底可笑しそうにクスクスと笑った。その笑い声が、シャワールームに反響して芳子の鼓膜を突き刺す。


「大成功でしたよ。実力不相応に増長した大黒柱のあなたが抜けて、小町は今頃機能不全のお通夜状態でしょうね。あなたたちを引き抜いたのも、単に戦力を削ぐため。こんなトップ・オブ・トップのAJGPWに、基礎もできていない泥人形の居場所なんて、最初からあるわけないじゃないですか。……せいぜい、クビになるまで排水溝の掃除でも頑張ってくださいね」


 用は済んだとばかりに、ゆかりは芳子たちを虫ケラを見るような目で一瞥し、コツコツとヒールの音を響かせて出て行った。

 

「あ……ああ……っ、あぁぁぁぁっ!!」


 芳子は、その場に力なく膝から崩れ落ち、頭を抱えて絶叫した。


 騙されていた。自分は特別だと思い込まされ、いいように踊らされていただけの、滑稽な道化だったのだ。


 夏南の不器用な優しさを「エリートの同情」だと捻くれて受け取り、一緒に汗を流し、血を吐くような特訓を乗り越えた仲間たちを裏切って、自分だけ甘い汁を吸おうとした結果がこれだ。


『……お嬢様は、気楽でいいだすな』


あの日、自分が夏南に吐き捨てた醜い言葉が、鋭いナイフとなって自分自身の胸を滅多刺しにしていく。


 痛い手首を庇いながら、不器用に点ててくれた、あの温かくて苦いお茶。


 旗揚げ戦で全敗した朝、一緒に泣いて、互いの傷だらけの肩を抱きしめ合った飯田や馬場の顔。


 本当の居場所は、あそこにしかなかったのに。


 泥臭くて、田舎者で、不格好な自分を、一人の人間として、戦友として心から認めてくれていたのは、あのオンボロ道場の仲間たちだけだったのだ。


「おら……なんて馬鹿なことを……ごめんなさい、夏南さん……っ」


 胸を掻き毟りたくなるような激しい後悔が、芳子の全身を波のように呑み込んでいく。


「飯田さん……馬場さん……みんな、ごめんなさい……っ!! ごめんなさいぃっ!!」


 AJGPWの冷たく無機質なタイル床の上で。


 芳子は汚れた雑巾を胸に強く抱きしめ、獣のように喉を鳴らして、ただただ許されるはずのない後悔の涙を流し続けることしかできなかった。

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