VOL.50 薄茶の泡と決別。ゼロからの師弟特訓
翌朝。
私は道場の一階にあるキッチンで、ふたたび茶筅を握っていた。
手首の痛みはもうほとんど引いている。
しかし、いざ薄茶を点てようとすると、肩にガチガチに力が入り、どうしても腕全体でかき回すような不格好な動きになってしまう。当然、美しい泡は立たない。
「……また、失敗」
濁った茶碗を見つめてため息をついた時、不意に横から手が伸びてきて、私の手からそっと茶筅を取り上げた。
「力が入りすぎです。そんなに肩を張っていては、良いお茶は点ちませんよ」
悠馬君だった。
彼は私の隣に立つと、新しい茶碗にお湯を注ぎ、流麗な手つきで茶筅を振り始めた。
肩の力は完全に抜け、肘から先だけが柔らかく動いている。裏千家特有の、手首のしなやかなスナップ。
あっという間に、茶碗の中にはきめ細やかな淡雪のような美しい泡が立ち上がった。
「悠馬君、お茶の作法なんて知ってたの?」
「いえ、見よう見まねです。ですが、プロレスの関節技も同じなんですよ」
悠馬君は、点てたばかりの美しい薄茶を私に差し出した。
「関節を極める時や、投げを打つ時。力任せにガチガチに力むと、相手に動きを読まれるし、自分のスタミナも消耗する。脱力し、一番力の伝わるポイントでだけ『スナップ』を利かせる。……今の夏南さんは、お茶を点てる時も、リングに上がる時も、全身が強張っています」
ハッとした。
悠馬君の言う通りだ。私はリングに上がる時、「お父さんのように強くあらねば」と、無意識のうちに全身に力を入れて、自分を大きく見せようとしていた。
「冬城のおやっさんは、身長190センチ、体重120キロのヘビー級でした。その圧倒的な質量があったからこそ、あの荒々しい『ストロングスタイル』が成立したんです」
悠馬君は、私の華奢な肩を真っ直ぐに見つめた。
「でも、夏南さんは違います。体重も軽く、筋力もない。そんなあなたが、お父さんの幻影を無理やり自分の身体に降ろそうとすれば……心と身体のバランスが崩れ、動けなくなるのは当然です」
悠馬君の言葉が、霧が晴れるようにスッと胸に落ちた。
私は、お父さんの「形」だけを真似ようとしていた。
巨大なクマの着ぐるみを、小鳥が無理やり着て動かそうとしていたようなものだ。
だから、あの『獣』の感覚はもう二度と降りてこない。いや、降ろしてはいけなかったのだ。
「……もう、ビースティー冬城は来ない。私は、私の足で立たなきゃいけないんだ」
私がポツリと呟くと、悠馬君は静かに頷いた。
私は両手で茶碗を包み込み、その温かい薄茶をゆっくりと飲み干した。苦味の中に、確かな甘みが広がっていく。
「悠馬君」
私は空になった茶碗をテーブルに置き、彼に向き直って深く頭を下げた。
「私に、プロレスを教えて。……基礎から、全部」
エドさんや鬼瓦さんの教える基礎体力作りじゃない。
「持たざる者」がリングで生き残り、勝つための技術。それを誰よりも知っているのは、昨日、自分だけの必殺技を完成させたばかりのこの若武者しかいない。
「お父さんの真似はもうやめる。私は、体重の軽さも、アイドルの時に培った柔軟性も、この手首の使い方も……全部自分の武器にして、新しい『冬城夏南』のスタイルを作りたい。だから、悠馬君の技術を、私に叩き込んでほしいの」
悠馬君は少し驚いたように目を見開いたが、すぐに口角を上げて不敵に笑った。
「……僕の特訓は、鬼瓦トレーナーのしごきより地味で、ずっとキツいですよ」
「望むところよ。もう、逃げないって決めたから」
「分かりました。僕が持っている技術、すべてあなたに移植しましょう」
その日から、私と悠馬君のマンツーマンの特訓が始まった。
道場の隅で、来る日も来る日も延々と繰り返されるのは、派手な投げ技でも打撃でもない。
力の抜き方。相手の力のベクトルを利用して体勢を崩す重心移動。
そして、小さな力で相手の急所を的確に絞り上げる関節へのアプローチ。
「違います、力で押し返さない! 僕の体重をそのまま横に流すんです!」
「くっ……こう!?」
「そうです! そこから手首のスナップを利かせて、関節をロックする!」
汗と泥にまみれながら、私は貪欲に悠馬君の技術を吸収していった。
亡霊の鎖を解き放ち、ゼロから己のプロレスを構築していく作業は、苦しくも、たまらなく充実していた。
『カリスマの娘』という重い鎧を脱ぎ捨てた夏南の身体に、プロレスラーとしての真の息吹が宿り始めていた。




