VOL.48 亡霊の鎖と、夜のリングでの邂逅
東北での過酷なサーキットを終え、江戸川区の道場へ戻ってきた私たちを待っていたのは、次なる興行に向けたさらなる猛練習だった。
だが、私の状態は最悪のままだった。
「夏南! 動きが止まってんぞ!」
リングの中央。飯田さんの放った強烈なエルボーが私の胸板を叩く。
普段なら、その反発力を利用してロープに走り、カウンターの技を繰り出せるはずだった。
しかし、私の足はキャンバスに縫い付けられたように動かない。
痛みを恐れているわけではない。次に「何をすればいいのか」が、頭の中からすっぽりと抜け落ちてしまっているのだ。
「オラァッ!」
飯田さんが私をロープに振り、戻ってきたところをボディスラムで叩きつけようとする。
私は空中で身体をこわばらせてしまい、受け身のタイミングが完全にズレた。
ドサッ!
背中からではなく、肩口から不格好にマットに落ちる鈍い音が響く。
「ストォォップ!!」
エプロンサイドから、鬼瓦さんの怒声が飛んだ。
「何やってんだ冬城! 今の不格好な落ち方はなんだ! 首から落ちて死にてえのか!」
「す、すみません……」
私は肩を押さえながら、うつむいた。
鬼瓦さんはロープを跨いでリングに入ると、私の前に立ち塞がり、冷酷な目で私を見下ろした。
「お前、ずっと『誰か』が助けてくれるのを待ってんじゃねえのか?」
「え……」
「新宿FACEでジュリー杉崎に向かっていった時の狂気はどこへ行った。今のお前は、自分の足でリングに立ってねえ。親父の亡霊が降りてくるのを、ただ口を開けて待ってるだけの空っぽの案山子だ」
その言葉は、私の胸の奥の最も痛い部分を正確にえぐり出していた。
「……亡霊の力に縋るくらいなら、リングから降りろ。他人のプロレスで生きていけるほど、この四角いジャングルは甘かぁねえんだよ」
鬼瓦さんの言葉に、私は何も言い返すことができなかった。
リングの隅で、芳子ちゃんや馬場さんが心配そうに私を見つめている。
大将であるはずの私が、一番の足手まといになっている。その事実が、たまらなく惨めだった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
その日の深夜。
消灯時間を過ぎた道場は、静寂に包まれていた。
私は眠れず、パジャマ姿のまま一人で暗いリングに上がり、冷たいキャンバスの上に体育座りをしていた。
お父さんの幻影。
ジュリー杉崎さんにパロ・スペシャルを極められたあの日から、私の中で何かがプツリと切れてしまった。
いくら目を閉じても、あの時の『獣』の感覚は戻ってこない。
「……私には、何もない。空っぽだ」
呟いた声は、暗い道場の天井に吸い込まれて消えた。
その時。
「空っぽなんかじゃありませんよ」
ふいに、入り口の方から声がした。
ビクッとして振り返ると、月明かりに照らされて、一人の男が立っていた。
悠馬君だった。
彼もまた、スウェット姿で汗だくになり、顔には新しい擦り傷を作っていた。東京プロレスの道場で、深夜までエドさんとの特訓を続けてきたのだろう。
「悠馬君……」
「奇遇ですね。僕も、壁にぶつかって頭を冷やしにきたところです」
「奇遇も何も、ここまでわざわざ来てくれたのね」
悠馬君はリングサイドに歩み寄ると、ロープに腕を預けて私を見上げた。
「……鬼瓦トレーナーの言葉、外から聞いていました。亡霊に縋っている、と」
「聞いてたんだ。恥ずかしいな……。悠馬君は、新しい必殺技を作るために頑張ってるのに。私は、お父さんの真似事すらできなくなっちゃった」
私が自嘲気味に笑うと、悠馬君は静かに首を振った。
「真似事だから、限界が来たんです。お嬢さん、あなたは大きな勘違いをしている」
「勘違い?」
「ええ。新宿FACEでジュリー杉崎を殴り飛ばしたあの力は、元代表の『亡霊』なんかじゃありません」
悠馬君の目は、真剣そのものだった。
「あの日、あなたの限界を超えた闘争心を引き出したのは、紛れもなく『あなた自身の肉体』です。エドさんの基礎トレーニングと、鬼瓦さんのしごきで作り上げた、夏南さん自身の筋肉と骨が、極限状態で最適解を弾き出しただけなんです。……誰も、あなたに憑依なんかしていない」
心臓が、ドクンと跳ねた。
「でも、私にはお父さんのストロングスタイルが……」
「だから、それが呪いなんですよ」
悠馬君が遮るように言った。
「あなたは『ビースティー冬城の娘』という殻に自分を閉じ込めようとしている。自分の力で放ったラリアットを、お父さんの力だと思い込もうとしている。だから、いざ自分の意思で動こうとした時に、身体が言うことを聞かなくなるんです」
悠馬君は、テーピングだらけの自分の拳をぎゅっと握りしめた。
「僕も同じです。今まで『相手の良さを消す』という技術に逃げて、自分自身の『殺し技』を作ることから目を背けてきた。自分の殻を破るのは、死ぬほど怖くて、苦しい。……でも、破らないと、その先には進めないんです」
悠馬君の言葉が、冷え切っていた私の心に、少しずつ熱を灯していくのがわかった。
「冬城夏南のプロレスをしてください。お父さんのストロングスタイルでもなく、誰かの借り物でもない……あなただけの『武器』を見つけるんです」
「私だけの……武器」
私は、自分の両手を見つめた。
茶筅を振る手首のスナップ。アイドル時代に培った柔軟性。そして、一ヶ月の地獄の合宿で手に入れた、決して諦めない心。
私の中に、何もないわけじゃない。
ただ、お父さんの巨大な影に隠れて、自分自身を見失っていただけなのだ。
「……ありがとう、悠馬君」
私はキャンバスから立ち上がり、真っ直ぐに悠馬君を見下ろした。
「私、見つけるよ。お父さんの真似じゃない、私だけの戦い方を」
「ええ。楽しみにしています」
夜の道場。
己の殻を破るため、必殺技を模索する若きレスラーと、亡霊の鎖を断ち切ろうとするカリスマの娘。
二人の運命の歯車が、静かに、だが確かな熱を帯びて再び回り始めた瞬間だっ




