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プロレス・ガール  作者: Tohna
増長と没落
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46/63

VOL.46 敗北の朝と逃亡者。それぞれの戦場への出陣

 旗揚げ戦の翌朝。


 道場に併設された合宿所は、野戦病院のような有様だった。


 あちこちから「痛てて……」「湿布、もう一枚取って……」という呻き声が聞こえてくる。二段ベッドから起き上がるだけで、誰もが顔をしかめていた。


 無理もない。AJGPWのトップランカーたちから受けたダメージは、合宿でのしごきの比ではなかった。


 私は一人、皆より少し早く起きて一階のキッチンに立っていた。


 テーブルの上には、マイ茶碗と茶筅(ちゃせん)、そして(なつめ)に入れた抹茶。


 全敗という重苦しい空気の中、せめてみんなの心を少しでも落ち着けたくて、お茶を点てようと思い立ったのだ。


「……くっ」


 しかし、茶筅を握った右手に少し力を込めただけで、肩から手首にかけて電気が走るような激痛が走った。


 ジュリー杉崎さんのパロ・スペシャル。


 完全に極められた両腕の関節と靭帯は、一晩寝たくらいで回復するような甘いものではなかった。


 手首のしなやかなスナップが利かず、不格好にかき混ぜられた茶碗の中には、大きな泡がまばらに浮いた薄茶が出来上がってしまった。


「……無理するなよ、お嬢様」


 背後から、首にコルセットを巻いたヤンキーの飯田さんが現れ、その「失敗作」を無造作に取り上げた。


 「なんだこれ、泡が立ってないしあまりうまくねえな!」


 と笑いながら飲み干す飯田さんに続き、腕を吊った戸谷さん、絆創膏だらけの馬場さんがキッチンに集まり、不格好なお茶を回し飲みしていく。


 その時だった。


 玄関の方から、キャスター付きのバッグを引きずる「ガラガラ」という重い音が聞こえてきた。


「……鳥海さん?」


 私たちが廊下に出ると、そこには私服に着替え、荷物をまとめた鳥海さんの姿があった。おどおどした彼女の目は、恐怖で完全に充血し、涙ぐんでいた。


「ご、ごめんなさい……私、やっぱり辞めます……!」


 鳥海さんが、震える声で叫んだ。


「昨日……皆さんがボロボロにされるのを見て、恐ろしくなりました。あんな怪物みたいな人たちと、私なんかが戦えるわけない……殺されちゃいます!」


脱走。


 あの凄惨な全敗劇を見せつけられれば、心が折れるのも無理はなかった。鳥海さんが玄関の重い扉に手をかけた、その瞬間。


「……どがねえだす」


 ドンッ! と、玄関の扉の前に立ちはだかる影があった。


 足を引きずりながら駆けつけた、福田芳子ちゃんだ。


「ど、どいてよ芳子ちゃん! 私、帰るんだから!」


 鳥海さんが泣き叫びながら、芳子ちゃんの胸を両手でドン、ドンと突き飛ばす。


 芳子ちゃん自身も、昨日の練習とセコンドでの疲労で満身創痍のはずだ。突き飛ばされるたびに顔をしかめるが、その分厚い農家の手は、決して扉のノブから離れなかった。


「……痛えのは、みんな同じだす。怖えのも、みんな同じだす」


 芳子ちゃんは、鳥海さんの両肩をガシッと掴んだ。


「ここで逃げたら、一生逃げ続ける人生になっちまうだす。おらたちの『小町』は、あんなエリートどもに負けたまま終わるような、ヤワな集まりじゃねえべ!!」


 芳子ちゃんの泥臭く、不器用な叫び。


 その真っ直ぐな瞳に見つめられ、鳥海さんはついにその場にへたり込み、ボロボロと大粒の涙をこぼして泣き崩れた。芳子ちゃんが、その小さな背中を優しく撫でる。


 誰も、鳥海さんを責めなかった。恐怖を乗り越え、それでもリングに立つ覚悟を決めるための、必要な儀式だった。


「――感動的な茶番は終わったか、ヒヨッコ共」


玄関の奥から、ド派手なシャツを着た源田さんがゆっくりと姿を現した。その後ろには、腕を組んで仁王立ちする鬼瓦トレーナーの姿がある。


「おい、鬼瓦。アレを配れ」


「おう。おら、受け取れ」


 鬼瓦さんが、私や飯田さん、そして泣き止んだ鳥海さんに、分厚いファイルを一部ずつ乱暴に手渡した。


「これは……スケジュール表?」

 馬場さんが目を丸くする。


「そうだ。昨日の一戦で、お前らがただの『客寄せパンダ』じゃないことは、業界中に知れ渡った」


 源田さんが、ギロリと私を見た。


「来月から、地方のインディー団体を回るドサ回りのサーキット(巡業)に出る。そこで泥水すする勢いで実戦経験を積み、自力で一勝をもぎ取ってこい。……いいな?」


「……はいっ!!」


 私たちの声が、道場に力強く響き渡った。


◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

一方その頃。

 プロレス小町の道場から遠く離れた、東京プロレス(東プロ)の巨大な道場。


 そこでは、女子たちの泥臭いドラマとは全く質の違う、血生臭い闘気が充満していた。


 バァァァン!!


 リングの中央で、肉体と肉体が激しく衝突する。


 若手レスラーである悠馬が、東プロのエースであるアシュラ相手に、本番さながらの激しいスパーリングを繰り広げていた。


「どうした悠馬! 昨日の小町たちの試合に当てられて、動きが硬くなってんじゃねえのか!」


 アシュラが強烈なエルボーを叩き込みながら吼える。


「……ッ! 舐めないでください!」


 悠馬が歯を食いしばり、鋭い低空ドロップキックでアシュラの膝を正確に撃ち抜いた。アシュラが体勢を崩したところを、すかさず関節技で捕獲しようと這い寄る。


「そこまで!」


 リング下でストップウォッチを持っていたレスラー兼任トレーナーのエドが、短く声をかけた。


 二人は荒い息を吐きながら、互いの健闘を称えて拳をぶつけ合った。エドからタオルを受け取ったアシュラは、ロープに腕を預けながら、リング中央で息を整える悠馬を見下ろした。


「悠馬。昨日、俺は帝プロの火浦の相手に、テメエの名前を勝手に売った。冬城の旦那の法事に次いで、これで二度目だがな」


「はい。東プロの看板、泥を塗るような真似はしません」


 悠馬が真っ直ぐにアシュラを見返す。


 しかし、アシュラは鼻でふんと笑い、冷酷な言葉を投げつけた。


「……だがな。正直言って、今のテメエじゃ火浦には勝てねえと思ってる」


「……何ですって?」


 悠馬の眉がピクリと跳ね上がった。


「テメエのプロレスは上手い。相手の長所を徹底的に消し、ペースを乱し、泥沼に引きずり込む。誰もテメエとは戦いたがらねえ、厄介なスタイルだ」


 アシュラはリングを降りながら、背中越しに言い放つ。


「だがな、それはあくまで『負けない』ためのプロレスだ。火浦みたいな規格外のバケモンを完全に仕留めるための『殺し技』……絶対的なフィニッシャー(必殺技)が、テメエにはねえんだよ」


 痛いところを突かれ、悠馬は思わず唇を噛み締めた。


 自分でも自覚している、最大の弱点だった。試合をコントロールすることはできても、最後にスリーカウントを奪い切るだけの破壊力を持った「決定打」がない。


「アシュラの言う通りです、悠馬」


 エドが静かに補足した。


「タッグマッチならお前のゲームメイクは完璧に機能する。だが、来月の『NGP』はシングルマッチ。帝プロのトップヘビー級から自力で勝利をもぎ取るには、どうしても『これさえ決まれば終わる』という必殺の武器が必要だろうな」


「俺が昨日、あえて火浦を煽ったのは、テメエを逃げ場のない崖っぷちに立たせるためだ」


 アシュラが振り返り、獰猛な笑みを浮かべた。


「いつまでも器用な裏方気取ってんじゃねえぞ。バケモンを食い殺すだけの『牙』を、本番までに磨き上げてみろ」


挑発。そして、不器用なエースからの強烈なエール。


「……言われるまでもありませんよ」


 悠馬の瞳に、これまでにないギラギラとした闘志の炎が宿った。


 彼は顔の汗をタオルで乱暴に拭い去ると、再びリングの中央に立ち、エドに向かって構えを取った。


「エドさん。もう一本、お願いします。……火浦の巨体を完全に沈めるための、新しい技を造ります」


 女子プロレスの世界で、泥水から這い上がろうとする『プロレス小町』。


 そして男子プロレスの頂上決戦に向けて、己の牙を研ぎ直す『東京プロレス』の若武者。


 帝国プロレスという巨大な共通の敵を前に、二つの戦線が今、激しく熱を帯びて交差しようとしていた。

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