VOL. アマレスの誇りと完璧なる絶望。託された最後の一矢を編集
三連敗。
無惨に散っていった仲間たちの熱が染み込んだリングに、副将・馬場樹里亜が静かに足を踏み入れた。
合宿所で見せていた「パリピ風」のチャラい雰囲気は、そこには微塵もなかった。
アマチュアレスリング全国大会出場経験者。
彼女が構えた低いタックルの姿勢は、寸分の狂いもない生粋のアスリートのものだった。
対角線に立つのは、AJGPWナンバーツーの実力者、神崎栞。
彼女もまた、アマレス上がりのエリートだ。これまでの三試合、素人だと思っていた『プロレス小町』の連中がトップランカーたちを限界まで追い詰める姿を、神崎はリングサイドで誰よりも鋭い目で見つめていた。
「……前言撤回するわ。あなたたちは素人じゃない。立派なプロレスラーよ」
神崎が、真っ直ぐに馬場さんを見据えて言った。
「だからこそ、私は一切の手加減をしない。AJGPW副将の誇りにかけて、あなたを完璧に叩き潰す」
「上等よ。エリートの鼻っ柱、へし折ってあげる」
馬場さんが低く唸る。
「カーン!!」
ゴングが鳴った瞬間、二人の身体が弾かれたように交差した。
飯田さんのような泥臭い殴り合いではない。打撃を一切排した、純度百パーセントの「レスリング」の攻防。
馬場さんの稲妻のような両足タックル(ダブルレッグ・ダイブ)が神崎の腰を捉える。しかし、神崎は瞬時に両足を後方に飛ばして体重を浴びせる「スプロール(がぶり)」でそれを完璧に切る。
そのままバックに回ろうとする神崎の腕を、馬場さんが巻き込んで立ち上がり、投げを打つ。それを神崎が空中で身を翻して着地する。
流れるようなグラウンドの攻防、目にも止まらぬスイッチとリバーサル。
息を呑むような高度な技術戦に、新宿FACEの観客は静まり返り、ただただ魅入られていた。
「すごい……樹里亜さん、あの神崎さんと互角に渡り合ってる……!」
リングサイドの私が声を震わせた。
だが、その均衡は五分を過ぎたあたりで崩れ始めた。
アマチュアレスリングの技術では互角でも、ここはロープがあり、三カウントがある「プロレス」のリングなのだ。
「甘い!」
神崎の鋭い声が響く。
馬場さんのタックルをいなした神崎は、そのまま馬場さんの胴体を抱え込み、後方へ豪快に投げ飛ばした。
ベリー・トゥ・ベリー(フロント・スープレックス)。
キャンバスに叩きつけられた馬場さんが、苦悶の声を上げる。
そこからの神崎は、まさに「完璧」だった。
一切の無駄がない動きで馬場さんの関節を削り、立ち上がろうとするたびに強烈なエルボーや投げ技でマットに沈める。
AJGPWナンバーツーの冷徹で計算し尽くされた攻めに、馬場さんの体力がゴリゴリと削られていく。
「はぁっ、はぁっ……!」
馬場さんが、汗で髪を顔に張り付かせながら、ロープを掴んで立ち上がる。
足元はおぼつかず、息は完全に上がっている。
「もう終わりよ。寝ていなさい」
神崎がとどめを刺すべく、馬場さんの背後に回り、両腕を抱え込んだ。必殺のタイガー・スープレックスの体勢だ。
――あんなのをまともに食らったら、首の骨が折れる!
「樹里亜さん! 逃げて!!」
私が悲鳴を上げた、その時。
『……エリートのアゴ、砕いてこい……』
担架で運ばれていった飯田さんの声が、馬場さんの脳裏に蘇ったのだろう。
馬場さんは後方に投げられる寸前、神崎の脚の間に自らの脚をフックし、強引にその動きを止めた。
「なにっ……!?」
神崎が驚愕した一瞬の隙。馬場さんは神崎の腕を強引に振りほどき、逆に神崎の腰を背後から深く抱え込んだ。
「アタシたちの……小町の意地、見せてやるわよぉぉぉっ!!」
馬場さんの絶叫と共に、神崎の身体が宙に浮いた。
美しいブリッジを描きながら、後頭部からマットに突き刺す、完璧なジャーマン・スープレックス・ホールド。
アマレス時代から磨き上げ、合宿で鬼瓦に叩き直された、馬場樹里亜の集大成とも言える一撃だった。
ワン! ツー!!
レフェリーがマットを叩く。
入った! 勝てる!!
誰もがそう思った瞬間。
バンッ!!
カウント2.9。
神崎の肩が、跳ね上がった。
「……嘘、でしょ……」
馬場さんの顔が絶望に染まる。完璧なタイミング、完璧な角度だった。それでも、AJGPWのトップは沈まない。
跳ね起きた神崎の瞳には、一切の油断も感情のブレもなかった。ただ、目の前の強敵を確実に仕留めるという、プロの殺気だけが満ちていた。
「見事だったわ。……でも、これで終わり!」
神崎は、膝をついた馬場さんの背後に回り、今度こそ両腕を背中でクロスさせるようにして固くロックした。
逃げ場のない、完全なタイガー・スープレックス・ホールド。
反り上がる神崎の完璧なブリッジと共に、馬場さんの身体が後頭部からマットに突き刺さった。
バァァァン!!
ワン! ツー! スリー!!!
カン、カン、カン、カン!!
「勝者、神崎栞!!」
新宿FACEが、大歓声と、そして深いため息に包まれる。
神崎が技を解くと、馬場さんは完全に意識を失い、大の字になって倒れていた。
0勝、4敗。
プロレス小町、全敗。
神崎はゆっくりと立ち上がると、意識を失っている馬場さんに向けて、静かに、深く一礼をした。それは、プロのレスラーが全力を出し切った相手にだけ見せる、最高の敬意の表れだった。
「……馬場さん!」
私はリングに駆け上がり、馬場さんの身体にすがりついた。
「ごめん……夏南……」
目を覚ました馬場さんが、掠れた声で呟く。
「神崎、強かった……。でも……アタシたち、一つも……逃げなかったよ……」
「うん……うん! 凄かったよ、樹里亜さん……っ!」
私は涙を拭いながら、馬場さんの手を強く握り返した。
村上レノン。戸谷明日花。飯田恭子。馬場樹里亜。
私の大切な四人の仲間たちは、誰一人として逃げず、AJGPWのトップに真っ向から挑み、そして散っていった。
リングサイドでは、神崎たちAJGPWの選手たちが、赤コーナーに立つ一人の女性へと道を空けていた。
黒と金を基調としたガウン。
威風堂々たる歩み。
その人がリングインした瞬間、会場の空気が一瞬にして「支配」された。
カリスマ、ジュリー杉崎。
彼女の冷たく、そしてどこか悲しげな瞳が、真っ直ぐに私を射抜いていた。
『――本日のメインイベント! 大将戦!』
リングアナウンサーの声が、新宿FACEに響き渡る。
私は、震える膝を両手で叩き、ゆっくりと立ち上がった。
仲間の想い、父の幻影、そして目の前に立つ最強のカリスマ。
すべての重圧をその華奢な肩に背負い、冬城夏南は、運命のゴングが待つリングの中央へと歩みを進めた。




