VOL.41 沈黙の盤上遊戯。サブミッション職人の意地と残酷な結末
先鋒戦の凄まじい結末に、新宿FACEは異様な熱気と動揺に包まれていた。
担架で運ばれていく村上レノンさんの姿を、次鋒の戸谷明日花はリングサイドで静かに見送っていた。
彼女の表情は、いつも通り氷のように冷たく、落ち着き払っている。
「……レノン、よくやったわ。あとは私が引き継ぐ」
戸谷さんは首の骨をポキリと鳴らすと、ゆっくりとリングの階段を上った。
次鋒戦。
赤コーナーから姿を現したのは、AJGPWが誇るサブミッションの達人、桃谷ゆづる。
小柄ながらも、その手足には無駄な筋肉が一切なく、まるでしなやかな蛇のような不気味さを漂わせている。
「カーン!!」
ゴングが鳴った。
先ほどの先鋒戦のような、ド派手なぶつかり合いはない。二人はリングの中央で姿勢を低くし、静かに相手の隙を探り合う。
タックル、テイクダウン、そしてグラウンドへの攻防。
打撃音一つないリング上に響くのは、キャンバスが擦れる「シュッ」という音と、二人の荒い息遣いだけだ。
プロレスにおける関節技は、チェスや将棋に似ている。
一つ先のポジションを読み、相手の腕や脚を罠に誘い込み、詰み(チェックメイト)へと追い込む盤上遊戯だ。
「……っ!」
桃谷が素早い動きで戸谷さんの背後を取り、スリーパーホールドを狙う。
だが、戸谷さんは慌てない。冷静に桃谷の腕を払い、下から絡みつくようにして桃谷の右腕を捕らえた。そのまま身体を反転させ、完璧な十字固め(クロス・アームブリーカー)の体勢に入る。
「極まった!!」
セコンドの私たちが思わず身を乗り出す。
合宿所のベッドで、毎晩ダミー人形の『ジョン』を相手にミリ単位で角度を調整してきた、戸谷さんの必殺の形だ。ジョンの腕なら、とっくにへし折れている角度。
しかし、桃谷の顔に焦りはなかった。
彼女は極められそうになっている右腕の肘の角度を微妙にズラし、戸谷さんのロックを無効化する。
そして、戸谷さんの身体を支点にするようにして、くるりと宙返りをした。
「なっ……!?」
戸谷さんが驚愕の声を上げた瞬間、攻守が完全に逆転していた。
桃谷の細い両脚が、戸谷さんの首と腕を万力のように締め上げている。変型のトライアングル・チョーク(三角絞め)だ。
「ぐぅっ……!」
戸谷さんの顔が、一瞬にして苦痛に歪む。
脱出を試みるが、動けば動くほど、桃谷の脚が容赦なく頸動脈を圧迫していく。さらに桃谷は、空いている戸谷さんの左腕を両手で掴み、ありえない方向へと捻り上げた。
首を絞められながら、腕の関節を破壊される。
見たこともない、複雑怪奇な複合関節技。これが、AJGPWのトップランカーが持つ「引き出しの数」だった。
「戸谷さん! ロープ! ロープに逃げて!」
私はリングサイドの床を叩きながら絶叫した。
戸谷さんの顔は真っ青になり、目は虚ろになりかけていた。左腕の関節からは、ギリギリと靭帯が悲鳴を上げる嫌な音が聞こえる。
それでも彼女は、決してタップ(降参)の意思を示さなかった。
(……タップなんて、しない。ここで私が折れたら、あの合宿の地獄は、レノンの涙は、何だったのよ……っ!)
戸谷さんは意識が遠のく中、右手の指先をジリジリと這わせ、数センチ先のロープへと伸ばしていく。
その執念に、新宿FACEの観客から自然発生的に「戸谷コール」が巻き起こった。
あと五センチ。
あと三センチ。
戸谷さんの指先が、鋼鉄のロープに触れた、その直前だった。
「……甘いよ、新人さん」
桃谷が冷酷に呟いた。
彼女は戸谷さんの身体をマットの中央へと強引に引きずり戻し、さらに深く、容赦なく左腕を反り上げた。
「あぁぁぁぁぁっ!!」
これまで一度も声を荒げたことのない、あのクールな戸谷さんの口から、絶望的な悲鳴が弾けた。
これ以上極められれば、左腕の骨は完全に砕け散る。プロレスラーとしての選手生命が終わる。
「ストップ! ストップ!!」
レフェリーが、戸谷さんの限界を悟り、二人の間に割って入った。
カン、カン、カン、カン!!
再び、非情な終了のゴングが鳴り響く。
「勝者、桃谷ゆづる! レフェリーストップ!!」
桃谷が技を解くと、戸谷さんはぐったりとマットに崩れ落ちた。
だらりと力なく投げ出された左腕を押さえながら、戸谷さんは悔しさに唇を噛み締め、ポロポロと涙をこぼした。
「ごめん……ジョンより、ずっと……強かった……」
敗北。
これで『プロレス小町』は二連敗。
圧倒的な技術の差を見せつけられ、会場は重い空気に包まれた。
だが、戸谷さんがセコンドに肩を貸されてリングを降りた瞬間、赤コーナーの階段を荒々しい足取りで駆け上がる影があった。
「……よくやったよ、戸谷。アンタの執念、しっかり見届けたぜ」
特攻服を羽織った元ヤンキー、飯田恭子。
彼女の目には、先の二人の敗北を糧にした、狂暴なまでの闘志が燃え盛っていた。




