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プロレス・ガール  作者: Tohna
後には引けない
37/45

VOL.37 青森からの純情と、暗躍する巨大な影

 スガハラの合宿所での夜は、湿布と筋肉痛の呻き声で満ちている。


 消灯時間を過ぎた薄暗い大部屋で、私は喉の渇きを覚えてそっとベッドを抜け出した。


 一階のキッチンへ向かおうとすると、廊下の隅で小さな灯りが漏れているのに気がついた。


 福田芳子ちゃんだった。


 彼女はジャージの裾を捲り上げ、両膝にできた無数の青アザに、ドラッグストアで売っているような安い塗り薬を不器用な手つきで擦り込んでいた。


「……芳子ちゃん、手伝うわよ」


「あっ、夏南さん……すんません。おら、鈍臭いから……」


 私が隣に座って薬のチューブを受け取ると、芳子ちゃんは申し訳なさそうに身を縮めた。


 彼女の膝は、今日一日の受け身の練習で悲惨なことになっていた。


 けれど、私が驚いたのは膝じゃない。彼女の「手」だった。


 同年代の女の子のそれとは違う、分厚くて、硬いタコだらけの無骨な手。


「芳子ちゃんは、どうしてプロレスラーになろうと思ったの?」


 私が静かに尋ねると、彼女はポツリポツリと語り始めた。


「おらの実家、青森のリンゴ農家なんだす。でも、ここ数年ずっと不作と台風が続いて……借金ばっかりで、じっちゃんも倒れちまって」


 芳子ちゃんは、自分の分厚い手を見つめた。


「じっちゃん、昔からビースティー冬城のプロレスが大好きだったんだす。何度倒されても、血だらけになっても立ち上がる姿を見て、『農家も同じだ』って笑ってた。だから、おら……」


 彼女の瞳に、真っ直ぐな熱が灯る。


「おら、テレビに出て、じっちゃんに元気になってもらいてえ。おらが何度投げられても立ち上がる姿を見せれば、きっとじっちゃんも、村のみんなも、また笑ってリンゴを作れるって……そう思ったんだす」


 胸の奥が、ギュッと締め付けられた。


 アイドルになれなかったから。自分探しのため。そんな私の動機とは次元が違う。


 彼女はこの身一つで、家族の人生を背負ってこの地にやってきたのだ。


「……バカ野郎。そういう話は、もっと早く言えっての」


 ふと頭上から声が降ってきた。


 見上げると、二段ベッドの上から、ヤンキーの飯田さんが鼻をすすりながら顔を出していた。


 さらに奥のベッドでは、戸谷さんや馬場さんも、毛布を被りながら静かに起き上がっている。


 みんな、起きて聞いていたのだ。


「いいか芳子。アンタはもう一人じゃねえ。受け身のコツはアタシが教えてやる」


「関節の逃がし方は私が教えるわ。ケガをしたら元も子もないものね」


「アタシの特製プロテインも分けてあげるから、しっかり筋肉つけなさいよね!」


 飯田さん、戸谷さん、馬場さんが次々と声をかける。


 おどおどしていた鳥海さんも、「わ、私も……アマレス式のタックルなら教えられます……!」と身を乗り出した。


 芳子ちゃんの純情が、バラバラだったエリートたちのエゴを溶かした瞬間だった。


 私たちはもう、ただのライバルじゃない。


一緒にリングという名の戦場に上がる、一つの「チーム」になったのだ。

◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


その頃、夏南たちが汗と泥にまみれている道場から遠く離れた、都内の超高層ビルの一室。

 プロレス界の絶対王者『帝国プロレス』の本社オフィスは、リングの熱気とは無縁の、冷たく洗練された空気に包まれていた。


「――報告は以上です。東京プロレスの鏑木(かぶらぎ)悠馬が動き、新宿FACEのスケジュールを押さえました。奴ら、来月の末に旗揚げ戦を強行するつもりのようです」


 高級なレザーソファに深く腰を掛けた帝国プロレスの営業本部長・黒田は、部下からの報告に忌々しそうに舌打ちをした。


「プロ東の現役レスラーが、他団体のために会場の交渉だァ? 馬鹿な野郎だ。リングで試合だけしてりゃいいものを、わざわざマネージャーの真似事をしてウチに喧嘩を売るとはな。プロ東の上層部が知れば、あいつのレスラー生命は終わりだぞ」


 黒田が冷笑を浮かべる。


 帝国プロレスの強大な圧力を前にしてもなお、インディー時代のコネを使ってまで夏南たちを庇おうとする悠馬の行動は、企業論理で動く黒田には理解し難いものだった。


「まあいい。スガハラの金を使ってインディーの箱でコソコソとデビュー戦気取りか。目障りだ。……おい、杉崎」


「はい」


 黒田の呼びかけに、窓際に立っていた長身の女性が静かに振り返った。


 タイトな黒のスーツを纏い、モデル顔負けのプロポーションと、彫刻のように整った顔立ち。


 彼女こそが、夏南が心から憧れているカリスマレスラーであり、買収されたAJGPWのトップスター、ジュリー杉崎だった。


「お前たちAJGPWのトップ選手五名を、その旗揚げ戦に『対戦相手』として送り込む」


「私たちが、ですか」


 ジュリー杉崎の切れ長な目が、微かに細められた。


「ああ。名目は『大型新人への胸貸し』だ。だが、本当の目的は公開処刑だ」


 黒田はデスクの上で両手を組み、冷酷な笑みを浮かべた。


「あいつらはたった三週間のオーディションで集められた、素人に毛の生えたような小娘の集まりだ。そんな連中にプロのリングを汚されるのは、業界のトップである我々のメンツに関わる。お前たちの圧倒的な実力で、開始三分以内に全員マットに沈めろ。二度とリングに上がりたいと思わないよう、徹底的に心をへし折ってこい」


 その命令を聞いて、ジュリーの背後に控えていたAJGPWのトップランカーたちが露骨に顔をしかめた。


「本部長。私たちに、素人いじめみたいな真似をしろと言うんですか?」


 AJGPWのナンバーツーである実力派レスラー、神崎が不満げに口を挟む。


「私たちはプロです。どこの馬の骨ともわからない小娘のデビュー戦に付き合わされるなんて、プライドが許しません。それに、いくら敵対しているとはいえ、悠馬のような他団体のレスラーが身を挺して守ろうとしている連中ですよ?」


「プライドで飯が食えるか。悠馬の感傷など知ったことか」


 黒田が冷たく言い放つ。


「お前たちAJGPWを買い取ってやったのはどこの誰だ? うちの傘下に入った以上、お前たちは帝国の兵隊だ。ビジネスに私情を挟むな」


 神崎が唇を噛み締め、悔しそうに俯く。


 ジュリー杉崎は何も言わず、ただ窓の外の摩天楼を見下ろしていた。彼女の胸中にも、帝国プロレスの「ビジネス至上主義」に対する静かな怒りと諦めが渦巻いている。


 純粋にプロレスを愛し、最高の試合をファンに届けるために戦ってきたのに。今や自分たちは、会社の気に入らない相手を潰すための『ヒットマン』に成り下がろうとしていた。


「……承知しました、黒田本部長」


 ジュリーが静かに答える。


「素直でよろしい。ああ、そうだ杉崎。お前が相手をする、そのドブネズミどもの『大将』の資料を渡しておこう」


 黒田がテーブルに、ペラリと一枚のプロフィール用紙を投げ捨てた。


冬城夏南(ふゆしろ かな)、というらしい。元はアイドル崩れの小娘だそうだ。笑えるだろう?」


 ――冬城。


 その苗字を聞いた瞬間、ジュリー杉崎の肩が微かに揺れた。


 彼女はゆっくりとテーブルに近づき、その資料を手に取った。写真に写っているのは、確かにアイドル志望のように華奢で、可愛らしい顔立ちの少女だった。


「冬城……。まさか、あの『ビースティー冬城』の……?」


「ああ、あの過去の遺物の娘らしい。親父の七光りで話題作りをするつもりだろうが、リングの上は残酷だと思い知らせてやれ」


 黒田の嘲笑を背に受けながら、ジュリー杉崎は写真の少女の目をじっと見つめた。


 ビースティー冬城。


 それは、ジュリー杉崎がまだ新人だった頃、密かにその「ストロングスタイル」に憧れ、目標にしていた偉大なレスラーの名前だった。帝国プロレスの上層部がどう思っていようと、現場で血を流すレスラーたちにとって、冬城は一つの伝説なのだ。


(……冬城の娘。あなたの瞳の奥には、あの方と同じ『炎』が宿っているの?)


「神崎、みんなに伝えてちょうだい」


 ジュリー杉崎は資料を丁寧に折りたたみ、胸のポケットにしまった。


 その声には、先ほどまでの諦めとは違う、静かで熱い闘気が宿っていた。


「私たちは新宿FACEに出陣する。……手加減は一切無用。プロレスの本当の恐ろしさと美しさを、あの人の娘の身体に刻み込んであげるわ」


 

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