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プロレス・ガール  作者: Tohna
後には引けない
36/45

VOL.36 鋼鉄の鞭と十番目の女

「おい、鬼瓦! 仕上がりはどうだ!」


 道場に響き渡ったのは、聞き馴染みのある、それでいて不遜なダミ声だった。


 入口に立っていたのは源田さんだ。


 相変わらずの派手なシャツに、自信満々の笑みを浮かべている。


「……ケッ、相変わらず騒々しい野郎だ。見りゃわかるだろ、まだ『素材』のままだ」


 鬼瓦さんが鼻を鳴らす。


 この巨漢の鬼トレーナーを「呼び捨て」にできるのは、世界中で源田さんくらいのものだろう。二人はかつて同じリングで血を流した戦友らしい。


「あら、源田ちゃん! 久しぶりじゃないの」


 奥からミツ子さんが、これまたニコニコと顔を出した。


「また痩せたんじゃない? ほら、特製のプロテイン・おはぎ作ったから食べなさい」


「お、おはぎ……? ミツ子さん、俺は今ダイエット中で……」


「食べなさいって、言ってるの」


 ミツ子さんが、おはぎを乗せた皿を源田さんの鼻先に突き出す。


 あの不敵な源田さんが、「ヒッ……」と小さく悲鳴を上げて、巨大なおはぎを口に押し込んだ。


 どうやらこの道場のピラミッドの頂点は、間違いなくミツ子さんらしい。


「――おしゃべりはそこまでだ! おらぁ、ヒヨッコ共! ロープに走れ!!」


 源田さんがモグモグとおはぎを咀嚼する横で、鬼瓦さんの雷が落ちた。


 本格的な実践トレーニングの開始だ。


 プロレスのロープ。


 テレビで見ている分には、弾力のあるゴムのように見えるかもしれない。


 だが、その正体は「鋼鉄のワイヤー」をホースで巻き、樹脂テープで巻き固めた代物なのだ!


「い、痛ぁあああああ!!」


 一番手に走った馬場さんが、背中にロープを受けた瞬間、絶叫して前のめりに転がった。


 時速二十キロ近いスピードで突っ込み、その全衝撃を背中で受け止める。それはスポーツというより、走行中の軽トラに跳ねられるような衝撃だった。


「止まるな! 跳ね返れ! 背中の皮が剥けてからが本番だ!」


 鬼瓦さんの声が飛ぶ。


 私も意を決して、リングを対角線に走った。


 一歩、二歩、三歩。


 全力でロープに背中を預ける。


 バァァァァン!!


 肺の中の空気が、一瞬ですべて押し出された。


 背中を熱い鉄板で焼かれたような激痛。脳みそが頭蓋骨の中でシェイクされる。


「カハッ……!」


 倒れそうになるのを、必死で踏みとどまる。


 お父さんは、こんな痛みを一試合に何十回も受けていたの?


「次は受け身だ! 顎を引け! 手のひらでマットを叩け!」


 ロープワークの次は、ひたすらマットに叩きつけられる「受け身(バンプ)」の練習だ。


 江戸川区の道場は、外見は古いがマットは最新鋭だと言った。だが、それでも硬い。


 何度も何度も、後頭部を打たないように顎を引き、背中全体で衝撃を逃がす。


 一時間も経つ頃には、全員がボロボロだった。


 ヤンキーの飯田さんは肩を落として荒い息をつき、クールな戸谷さんは膝をついて震えている。おどおどしていた鳥海さんに至っては、目がうつろだ。


 でも、誰も「辞める」とは言わなかった。

 痛みの先にある、自分たちの「居場所」を必死に掴もうとしているのが、空気で伝わってくる。


 そんな中、リングの隅で、一際泥臭く、不器用ながらも必死に動いている子がいた。


 他の九人とは明らかに雰囲気が違う。


 少しふっくらとした体型に、赤ら顔。都会の喧騒とは無縁そうな、田舎の素朴な空気を纏った女の子だ。


「……あの子、誰?」


 私が悠馬君に小声で尋ねると、源田さんが横から口を開いた。


「ああ、彼女が十人目の合格者……『ミスX』こと、福田芳子ふくだ よしこだ」


 芳子ちゃんは、お世辞にも運動神経が良いとは言えなかった。


 ロープに走れば足がもつれて転び、受け身を取れば「どすん!」と重苦しい音を立てて悶絶している。


 だが、彼女は倒れるたびに、誰よりも早く起き上がった。


「……すびません。もう一回、お願いしますだ!」


 訛りの混じった声で、彼女は鬼瓦さんに頭を下げた。


 膝からは血が滲み、全身アザだらけのはずなのに、その瞳には一点の曇りもない。


「彼女は青森の農家出身でな。一次試験では箸にも棒にもかからんほど鈍臭かったんだが……」


 源田さんがおはぎを飲み込み、真面目な顔で続けた。


「あいつは、一次の会場からこの江戸川の道場まで、毎日十キロのランニングと千回のスクワットを、一日も欠かさず動画で送ってきやがった。……その執念に、俺が折れたんだ」


 福田芳子。


 不器用で、鈍臭くて、でも誰よりも「プロレスラー」になることを諦めなかった女の子。


 彼女の必死な姿を見て、疲労困憊だった飯田さんや馬場さんたちが、再びゆっくりと立ち上がった。


「……負けてらんないわね。あんな鈍臭い子に、根性で負けるなんて」


 飯田さんが、不敵に笑って髪をかき上げる。


 バラバラだった十人の合格者が、芳子ちゃんという「純粋な熱源」を中心に、一つのチームになろうとしていた。


「よし、休憩終わりだ! 次はスパーリング、基礎の立ち振る舞いだ! 芳子、お前が先頭だ!」


「はいっ!!」


 芳子ちゃんの元気な返声が、道場の天井を突き抜けた。


 江戸川区の古い倉庫に、新しい時代の、泥臭くて熱いゴングが鳴り響いた。

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