VOL.33 フードファイトは突然に。乙女の胃袋とプラス3キロの壁
後楽園ホールからの帰り道。
悠馬君が運転するGMCユーコンは、都内に入り、中野区の自宅近くにある大型スーパーの駐車場に滑り込んだ。
「いいですか、お嬢さん。源田からの宿題は『一週間でプラス3キロ』です。まずは食料の調達からですよ」
「わ、わかってるわよ……」
ユーコンから降りるだけでも全身の筋肉が悲鳴を上げる。
アイドルのような優雅な足取りなんてとんでもない。生まれたての子鹿のようにプルプルと震える脚を引きずりながら、私は悠馬君の後について食品売り場へと向かった。
悠馬君が容赦なくカートに放り込んでいくのは、キロ単位の鶏胸肉、特大サイズの卵パック、そして10キロの米袋だ。
「ちょっと悠馬君、業者じゃないんだから! そんなに食べられないわよ!」
「これでも合宿までの数日分ですよ。さあ、お嬢さんも一つ持ってください」
渡された卵のパックを受け取ろうと腕を伸ばした瞬間、スパーリングで酷使した肩に激痛が走った。
「痛たたっ!」
私が思わず声を上げると、長袖のカーディガンから、痛々しい青アザだらけの腕が覗いてしまった。
その瞬間、レジ打ちをしていたパートのおばちゃんの動きがピタリと止まった。
おばちゃんの視線は、青アザだらけで涙目の私と、隣に立つ屈強な黒スーツ姿の悠馬君を往復している。その目には明らかな「恐怖」と「疑惑」が浮かんでいた。
(ち、違うんです! この人は私の送迎係で、これはプロレスのオーディションで……!)
心の中で全力で弁解したものの、声には出せない。悠馬君も気まずそうにペコペコと頭を下げていて、私たちは逃げるようにスーパーを後にした。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
中野の自宅に帰ると、すぐにエドさんが買ってきた食材で食事を作ってくれた。
ダイニングテーブルにドスン、と置かれたのは、まるで日本昔話に出てくるような山盛りのどんぶり飯と、大皿にこれでもかと盛られた鶏肉のソテーだった。
「さあ、お嬢さん。プロレスラーの『鎧』を作るための第一歩です。残さず召し上がってください」
「……ねえ、エドさん。カロリーを摂ればいいんでしょ?」
私は現実逃避するように、食器棚の奥から美しいお茶碗と茶筅を取り出してきた。
「私、閃いたの。和菓子の『練り切り』って、お砂糖たっぷりでカロリーの塊じゃない? だから、とびきり甘い主菓子をたくさん食べて、裏千家のお点前で優雅にお濃茶を練っていただくの。これなら体重も増えるし、心も落ち着くし、完璧な増量計画だわ!」
エドさんは無表情のまま、私が手に持っていた茶筅をそっと取り上げた。
「お嬢さん。糖質だけでは、相手の技を受け止める筋肉の『鎧』は作れません。必要なのはタンパク質と、それをエネルギーに変える炭水化物です。さあ、お茶碗をお茶からドンブリに持ち替えてください」
「うぅぅ……」
一切の妥協を許さないエドさんと悠馬君の監視のもと、私は泣く泣くお箸を持った。
最初の一口、二口は美味しかった。スパーリングの後でお腹も空いていたし、鶏肉の味付けも完璧だった。
でも、半分を食べ終えたあたりで、私の身体に異変が起き始めた。
――顎が、疲れる。
咀嚼がただの「作業」になり、胃袋がはち切れそうなほどパンパンに膨れ上がっていく。飲み込もうとしても、喉が食べ物を拒否しているみたいだ。
「もう……無理……。一口も、入らない……」
涙目で訴える私に、エドさんは静かに首を振った。
「リングの上で強烈な技を受けるには、外側の筋肉だけでなく、内臓も強くなくてはいけません。『食べるのも練習』です」
「鬼! エドさんの悪魔!」
結局、お茶で無理やり流し込みながら、私は一時間以上かけてその山を平らげた。
スクワット500回より、この「フードファイト」の方がよっぽど地獄じゃないか。私、本当にプロレスラーになんてなれるの?
パンパンに膨れたお腹を抱え、絶望的な気分のまま、私は泥のように眠りについた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
翌朝。
全身のバキバキとした痛みに呻きながらも、私はどこか達成感に包まれて洗面所に向かった。
あんなに苦しい思いをして、限界まで胃袋に詰め込んだのだ。きっと1キロくらいは軽く増えているはずだ。
私は意気揚々と体重計に乗り、デジタルの数値を覗き込んだ。
「……えっ?」
表示された数字を見て、私は自分の目を疑った。
「プラス……300グラム!?」
たったの、300グラム。
あんなに泣きながら鶏肉とどんぶり飯を詰め込んだのに、誤差みたいな数字しか増えていなかったのだ。
「嘘でしょ……『プラス3キロ』なんて、一体どれだけ食べればいいのよぉおおお!」
私の絶叫が、朝の空にむなしく響き渡った。
泥沼の抗争の前に立ちはだかる「増量」という名の巨大な壁。私の地獄の合宿前の一週間は、こうして幕を開けたのだった。




