VOL.32 合格の代償は全身打撲と「プラス3キロ」!?
「痛たたたた……っ!」
後楽園ホールの薄暗い地下駐車場。
コンクリートの冷たい空気が漂う中、悠馬君が待つ漆黒のGMCユーコンの助手席に乗り込もうとした私は、分厚いドアの取っ手を引いただけで全身の筋肉が悲鳴を上げ、思わずその場にうずくまりそうになった。
「お、お嬢さん!? 大丈夫ですか!?」
アイドリングして待っていた悠馬君が、私の異変に気づいて慌てて運転席から飛び出してきた。彼の差し出してくれた腕にすがりつくようにして、私はなんとかユーコンの広くてふかふかした革張りのシートに身体を沈めた。
「あいたた……。ごめん、ちょっと動くのもしんどいわ」
冷房の効いた快適な車内で荒い息を整える私を見て、悠馬君は絶句していた。
ルームミラーにちらりと映る自分の顔を見て、私も絶句した。
スパーリングでつけられた無数の青アザが首筋から腕にかけて広がり、綺麗に巻いていたはずの縦巻きロールの髪は汗と湿気でボサボサ。メイクはすっかり落ちて、そこにはキラキラしたアイドルを夢見ていた女子大生の面影なんて微塵もない。ただの「戦い疲れた野良猫」みたいな惨状だった。
「……合格、したわよ。たった十人の、選ばれし『兵器』の一人としてね」
私はシートに深く寄りかかったまま、絞り出すように言った。
「兵器……?」
「悠馬君が心配していた通りだったわ。源田さんの本当の狙いは、帝国プロレスが買収したAJGPWを私たちに潰させること。私たちは、あいつらをぶっ潰すための切り込み隊長なんだって」
「なっ……! だから言ったじゃないですか!」
悠馬君がドンッと、苛立ち任せにハンドルを叩いた。普段は温厚で冷静な彼が、こんなに声を荒げるのは珍しい。
「スガハラは最初から、お嬢さんたち素人を鉄砲玉にするつもりなんですよ! 帝プロの莫大な資金力と、ジュリー杉崎が率いるAJGPWが完全に手を組んだんです。今のプロレス界で、あそこに喧嘩を売るなんて完全に狂ってる、自殺行為だ。お嬢さん、今すぐ辞退の電話を入れてください!」
悠馬君の言うことはもっともだ。
業界最大手の帝国プロレスに、ぽっと出の素人集団が挑むなんて、ダンプカーに三輪車で突っ込むようなもの。
「……辞退は、しないわ」
私は、ズキズキと熱を持って痛む右腕をさすりながら、まっすぐに悠馬君を見た。
「不合格だった友部さんや蘇我さんたちも、練習生として残ることになったの。真剣な眼差しで『残ります』って源田さんに食ってかかったあの子たちを見てたら……私だけ逃げるなんてできないじゃない。私たちがデビューして、興行をしっかり成功させてお金を稼がないと、あの子たちのご飯代すら出ないのよ」
それだけじゃない。
あのリングの上で、鳥海さんや戸谷さん、飯田さんたちと本気で組み合った時の、肌が焼けるような熱。お互いの意地と意地がぶつかり合う瞬間の、あのヒリヒリした高揚感。
それを知ってしまった以上、もう元のチャラチャラした日常になんて戻れる気がしなかった。
「それにね……源田さんからはもう『合宿までの宿題』が出されてるのよ。一週間後に始まる合同合宿までに、絶対にクリアしなければならないノルマを課されたの」
「宿題、ですか?」
「一つ目は、毎日ヒンズースクワットを最低500回」
「ご、五百……」
「そして二つ目は……『体重を最低でも3キロ増やすこと』よ!」
「さんキロ!?」
「そうよ! 信じられる!? 炭水化物とタンパク質を限界まで胃袋に詰め込んで、プロレスラーの基礎となる『鎧』を作ってこいって言うのよ! 私がどんだけ苦労して、サラダとスムージーでこのモデル体型を維持してきたと思ってるのよ! お気に入りのお洋服が入らなくなったらどうしてくれるのよ!」
私は助手席で頭を抱えて叫んだ。
太るなと言われるより、意図的に太れと言われる方が女子にとっては地獄だ。細くて可愛いマッチ棒のままじゃ、リングの上では生きていけない。プロレスラーになるってことは、そういう残酷な現実を受け入れることなのだ。
「悠馬君、お願い。明日から実家で、エドさんに手伝ってもらってスクワットの正しいフォームを叩き込むわ。それから……帰りにスーパーに寄って。お肉とお米、買い占めなきゃ」
悲壮な覚悟を決めた私を見て、悠馬君は深く、本当に深くため息をついた。
やがて、諦めたように静かにユーコンのエンジンをかける。
「……わかりました。おやっさん……ビースティー冬城の娘が一度やると決めたなら、もう僕には止められない。その代わり、僕にも考えがあります」
重低音を響かせて車が走り出す中、悠馬君は前を向いたまま言った。
「考え?」
「ええ。帝プロの動きを、裏からもう少し探ってみます。お嬢さんが最前線の戦場に出るというなら、僕なりのやり方でサポートさせてもらいますよ」
夜の街灯が、悠馬君の横顔を次々と照らし出していく。
泥沼の抗争。地獄の合宿。そして、増量という名の乙女の危機。
私のプロレスラーへの道は、想像を絶するいばらの道になりそうだった。




