第9話 遠征は、写しで行く
その晩、わたくしは手紙を書いた。
宛先は王立測図院。文面は、できるだけ短くした。長い手紙は読まれない。院にいたころ、自分がそうだったからだ。
北方街道の経路について、三点、申し添えます。
一、ヴェルデ峠から北二十里、ラーン川へ下る手前の谷は、冬季、日の入りより二刻早く翳ります。行程を組む際は、この谷で日没を迎えぬようご配慮ください。
二、同じ谷の東斜面は土が緩く、雪が乗ると崩れます。斜面の下で野営なさらぬよう。
三、これらは原図の余白に印を打ってございましたが、清書の際に落とされております。
三点目を書くのに、いちばん時間がかかった。
三度書き直した。一度目は長すぎた。二度目は、恨みごとに読めた。三度目でようやく、事実だけの一行になった。
封をして、翌朝の便に乗せた。
この時期の便は、峠を越えるのに七日かかる。返事が来るとすれば、早くて三十日後だった。
便に託すとき、フェリクス様が、封の宛名を見て仰った。
「院へ、ですか」
「はい」
「……あの、差し出がましいことを申しますが」
フェリクス様は、めずらしく言いよどんだ。
「その手紙、あなたの名前で出しますよね」
「はい」
「向こうは、それを読みますか」
わたくしは、答えられなかった。
院の書類は、席次で読まれる。誰が書いたかで、読む順番が決まる。外回りの者の意見具申は、月に一度まとめて回覧される。回覧というのは、卓の上を回るという意味で、読まれるという意味ではない。
それを十年見てきて、わたくしは今、その仕組みのいちばん端に自分を置いている。
「それでも、出します」
「はい」
「読まれなくても、出したという事実だけは、残りますので」
フェリクス様は、それ以上何も仰らずに、便の男に封を渡してくださった。
◇
王都では、年明けの十日に、遠征課の会議が開かれた。
卓の上には、北方十二里の写しが広げてある。原図ではない。原図は院の書庫に納められていて、持ち出しには院長の許可が要る。だから写しを取り、その写しから、隊のぶんを六枚さらに写した。
六枚目は、線が少し太かった。写すたびに、墨は太る。
「峠を越えて、川筋を下る。ここで六日」
ジークベルト・エッシェンバッハは、卓の上を指でなぞった。
同席していたのは、遠征課の課長と、測図院の次席と、書記が二人。院長は出ていない。院長は現場の会議には出ない。
「この谷の底は、平らですな」次席のオズヴァルト・レーマーが言った。「野営に向きます」
「川へも近い」
「水が取れます。よろしいのでは」
ジークベルトは、うなずいた。
彼はこの図を信用していた。理由は単純で、この図は正確だったからだ。三年かけて測られている。誰が測ったかは、彼にとって重要ではなかった。図というのはそういうもので、誰が引いても同じものが出る——そう考えるのは、彼の落ち度ではない。院の者が、みなそう言っていた。
「日程は」
「一月十八日、出立」
書記が羽根ペンを走らせた。会議は四半刻で終わった。
この経路は、去年の秋にすでに決まっている。今日の会議は、決まっていることを紙に残すための会議だった。そういう会議が、王都には多い。
オズヴァルトは、写しを丸めて紐をかけた。指三本ぶんの隙間を残して、二重に。端は引けばほどける結び方にした。
この巻き方を、彼は写図室で覚えた。誰に教わったかは、思い出せなかった。写図室では、みなこの巻き方をする。
「レーマー殿」
部屋を出るとき、ジークベルトが呼び止めた。
「この図は、信用していいのだな」
「三年かけて測っております」
「誰が測った」
オズヴァルトは、少しだけ間を置いた。
「院が測りました」
ジークベルトは、うなずいた。
◇
卓の隅に、封を切っていない書状が一通あった。北方測図の任にある者からの私信で、宛先は院。分類は「意見具申」。
院では、外回りの者からの意見具申は、月に一度まとめて回覧される。次の回覧は、二月の頭だった。
◇
辺境の一月は、風が変わる。
北の稜線から吹き下ろす風が、日に何度も向きを変えるようになる。この時期は測れない。器械が据えられない日が続いて、わたくしは館で清書をしていた。
布の下図を、羊皮紙へ写す。
紙は貴重なので、書き損じられない。線を引く前に、鉛の芯で薄く当たりを取る。当たりの上を墨でなぞって、乾いてから、鉛を柔らかいパンの端で擦って落とす。
当たりを取るのに、いちばん気を使うのは縮尺だった。
村の図と峠の図では、縮め方が違う。村は細かく、峠は粗く描く。粗くしないと、一枚に収まらない。けれど二枚を並べて見る人は、同じ縮尺だと思って見る。だから、それぞれの下に、歩数の目安を入れることにした。
この線一本が、大人の足で百歩。そう書いておけば、縮尺という言葉を知らなくても読める。
院の図には、縮尺が分数で書いてある。読めるのは、分数を習った人だけだ。
村の図が一枚。峠の図が一枚。坑の図が一枚。三枚とも、右下の署名の枠は引かなかった。
代わりに、余白に印を打った。峠の吹き溜まりに横棒。坑口の崩れかけた支柱に、小さな四角。ニナの歌の「北へ三つ」が何を指すのか分かるまでは、そこは空けておいた。
「それは何です」
フェリクス様が、覗き込んで仰った。
「印でございます」
「見れば分かります。何の」
「ここから先へ行くと、戻れなくなるかもしれない、という印です」
フェリクス様は、しばらく布の上を見ておられた。
「……あなたの図は、行き方より、帰り方のほうが多く書いてありますね」
言われて、はじめて気づいた。
そうだった。ずっとそうだった。院では、それを余白と呼んで、落としていた。
◇
一月の終わりに、峠の向こうから知らせが来た。王都の測量隊が、ヴェルデ峠を越えたという。
人数は三十二。荷馬が十二頭。予定より二日遅れているが、天気は持っている。
その日は風がなく、久しぶりに測れる日だった。わたくしは村の東の斜面にいて、木立の切れ目を三か所、繋いでいた。
トマスさんが、その話を村から持ってきた。
「都の連中が、川筋を下るってよ」
「……いつでございますか」
「もう下りてる頃だろ」
わたくしは、帳面を開いた。
峠から、あの谷の入口まで、荷馬を連れて二日。谷を抜けるのに、荷があれば一日半。
二日と一日半。合わせて三日半。どこで日が暮れるかを、指で数えた。一日目の夕、峠を下りきったあたり。ここは開けている。二日目の夕、谷の入口。ここも、まだいい。三日目の夕——指が止まった。
三日目の日暮れは、谷の中ほどに来る。両側の尾根が高く、日の入りより二刻早く翳る場所。その東の斜面は、土が緩い。
荷馬を連れた三十二人が、そこで暗くなる。
暗くなれば、平らな場所を探す。平らな場所は、斜面の下にある。斜面の下は、風が来ない。風が来ない場所は、野営に向いている。
誰でもそうする。わたくしでも、印が無ければそうする。数え終わって、わたくしは立ち上がっていた。
【余白より】意見具申、一通。峠越えに七日。三日半で日が暮れる。指で数えた。
何が起きるかは、この時点で読者の皆さまのほうが先に分かる作りにしてございます。分かっていて止められないというのが、いちばん長く効きます。
次回、その谷で三十二人が野営いたします。余白の一行が、写されておりません。




