第8話 坑口の記憶
銀掘りの古坑があると教えてくださったのは、ハーヴェル爺だった。
クヴェレ村から東へ、沢を二つ越えたところ。五十年前まで掘っていて、今は誰も入らない。入口が三つあって、そのうち一つは崩れている。
「どれが崩れているのですか」
「さあ。わしが子どもの時分にはもう、そう言われとった」
図には、坑口が一つだけ描いてあった。
王都の写しではない。館の物置にあった、この領の古い一枚。四十年ほど前の墨で、紙が茶色くなっている。坑口はひとつ、四角い記号で描かれて、その脇に「銀」と書いてある。
三つあるものが、一つになっていた。
◇
沢を二つ越えるのに、半日かかった。
冬の沢は、越えるのが難しい。夏なら水の中を歩けばいい。冬は、水の上に雪が乗って、蓋のようになっている。その蓋は、場所によって厚かったり薄かったりする。
見分ける方法をトマスさんが教えてくれた。雪の色を見る。下に水が流れているところは、雪がわずかに青い。青いところは踏まない。
わたくしは、その青の見え方を覚えるのに、沢一つぶんかかった。二つ目の沢では、自分で見分けられた。
こういうことは、図には描けない。青い、と書いても、青の程度が伝わらない。伝わらないものは、図の外に置くしかない。
だから村には、歩ける人が要る。図は、歩ける人の代わりにはならない。
ニナと、トマスさんと、フェリクス様。ライナー様は領のご用で峠の向こうへ行かれている。
道はあるようで、無い。夏には人が通るらしいが、冬は雪が覆っていて、木立の切れ方だけを頼りに進む。トマスさんが先に立って、鉈で枝を落としながら歩いた。落とした枝は、そのまま目印になる。
途中でニナが歌を歌いはじめた。
北へ三つ、水がある。
東へ二つ、木がある。
西へ行くなら、日のあるうちに。
節が単純で、同じところを繰り返す。
「それは、何の歌でございますか」
「知らない。ばあちゃんが歌ってた」
わたくしは、帳面に書き留めた。
北へ三つ、水がある——三つ、というのは何の三つだろう。沢だろうか。曲がり角だろうか。
その日は、それ以上分からなかった。
◇
坑口は、三つとも見つかった。
一つ目は、図に描いてあるとおりの場所にあった。木の枠が半分朽ちて、口の上半分が土に埋まっている。
二つ目は、そこから北へ四十歩ばかりの、岩の陰。
三つ目は、離れていた。沢を一つ下ったところ。ここだけ、水が流れ出していた。坑の中に湧いた水が、下の口から出ている。
三つを繋いで考えると、この山の中に、四十歩ぶんではきかない広さの穴が空いていることになる。
図の四角ひとつでは、それが分からない。
わたくしは三つの口の位置を、器械で測った。木立が邪魔をして、二つ目からは一つ目が見えない。そういうときは、見える場所をひとつ挟む。岩の頭がちょうどよかったので、そこへ布を巻いて目印にして、二回に分けて繋いだ。
繋ぐたびに、誤差が乗る。だから繋ぐ回数は少ないほどいい。三つの口を測るのに、四回繋いだ。四回ぶんの誤差は、歩幅で言えば二、三歩ぶん。この土地なら、それで足りる。
王都なら足りない。王都では、家の壁と壁のあいだを測る。二、三歩ずれると、他人の家に線が入る。
どこまで正確なら十分か、という問いに、正しい答えはひとつではない。何のために測るかで変わる。
「入るのか」
フェリクス様が、松明を持ったまま仰った。
「一つ目の口から、十歩だけ」
わたくしは、測縄の端をトマスさんに握っていただいた。十歩ぶん出したら、それ以上は行かない。縄を握っている人がいれば、必ず戻れる。
中は、思ったより広かった。
天井が高い。壁に鑿の跡が残っていて、上から下へ、規則正しく並んでいる。掘った人の背丈が分かる高さだった。
足元に木が落ちていた。拾い上げると、支柱の切れ端だった。折れた面が、まだ白い。
新しい。五十年前に折れたものなら、こんな色はしていない。
「トマスさん」
わたくしは、外へ声をかけた。
「この坑は、いつまで人が入っておりましたか」
「五十年前だろ」
「支柱が、最近折れております」
外で、少し声が途切れた。
「……そりゃ、崩れかけてるってことか」
「崩れかけております。三つ目の口から水が出ているのも、たぶん、同じ理由でございます」
◇
外へ出ると、ニナが岩の陰に座っていた。膝を抱えて、坑口のほうを見ないようにしている。
「入らないのでございますか」
「入らない」
「はい」
「……別に、こわくない」ニナは、言った。「暗いのが嫌いなだけ」
「わたくしもです」
「うそだ。入ってたじゃん」
「縄がございましたから」
ニナは、それを聞いて、しばらく黙っていた。それから、わたくしの手の中の測縄を見て、こう言った。
「縄、あったら入れるの」
「戻れると分かっていれば、たいていの場所には入れます」
ニナは、膝を抱えたまま、少しのあいだ考えていた。
「じゃあ、縄がないと入れないってこと?」
「縄でなくてもよいのです。誰かが外で待っている、でも構いません。日が沈むまでには戻る、と決めてある、でも構いません」
「決めるだけで?」
「決めるだけでは足りません。決めたことを、守れる場所にいるかどうかを、先に知っておく必要がございます」
それが、たぶん、わたくしの仕事だった。
◇
帰り道で、ハーヴェル爺の話を聞いた。
わたくしが、坑口が三つとも図に無いのはなぜかと伺ったからだ。
「院はな、消すんだ」
爺は、雪を踏みながら仰った。
「三つあると、書く手間が三倍になる。写しを取るときも三倍だ。ひとつにまとめても、上には分からん。上は現地を見ないからな」
「……確かめないのですか」
「確かめる者は、外回りに回される」
わたくしは、足を止めそうになった。
その言い方には、覚えがあった。写図室で、二度尋ねた者がどこへ行くか。
「爺は、外回りでいらしたのですか」
「二度尋ねたからな」
それきり、その話はされなかった。
村の入口が見えたところで、爺は思い出したように付け足された。
「王都の連中を、悪く思わんでやってくれ。あれは、そういう作りになっとるだけだ。作りを直さんことには、誰が座っても同じことをする」
◇
館に戻ると、フェリクス様が掲示板の前に立っておられた。
王都からの回状が、月の荷で届いていた。
北方街道開削のため、軍務省遠征課が測量隊を出す。出立は年明け。経路は、ヴェルデ峠を越えて北上し、ラーン川流域を通って鉱山へ至る。
わたくしは、その一行を三度読んだ。
ヴェルデ峠を越えて北上し、ラーン川へ下る手前に、谷がひとつある。両側の尾根が高く、冬は昼を過ぎるとすぐに翳る。日の入りより二刻早く暗くなる谷だ。
その東の斜面は、土が緩い。三年前、わたくしはそこへ登って、土を握って崩れ方を見た。
だから原図の余白に、短い横棒を一本引いた。いま、その印は、紙にない。
【余白より】坑口は三つ。図には一つ。支柱の折れ口、まだ白し。
図が現地に負ける回でございます。この作品は、地図の万能を書きません。土地の記憶のほうが正しいことは、いくらでもございます。
次回、王都で北方遠征の告示が出ます。隊が持ってまいりますのは、原図ではなく、写しの写しでございます。




