第7話 峠は、冬に嘘をつく
書状のことを、ライナー様に申し上げた。
原図の原本を、速やかに院へ送付すべし。読み上げると、その方は暖炉のほうを向いたまま、しばらく何も仰らなかった。
「まだ、原本と呼べるものはございません」
わたくしはそう申し上げた。事実だった。あるのは蝋を引いた布の下図が七枚と、帳面が一冊。清書はしていない。
「送るのか」
「送れと書いてございます」
「訊いているのは、お前がどうしたいかだ」
答えられなかった。
院の命に従わない、という言い方を、わたくしはしたことがない。十年、そういう場面に立ったことがなかった。
「急ぐ話でもあるまい」
ライナー様は、それだけ仰った。
「峠へ行くぞ。雪が締まっているうちに」
◇
シュタイン峠は、館から北へ二里半。
この領で唯一、荷車が通れる峠で、王都からの荷も、鉄も塩も、全部ここを越えてくる。越えられなくなる季節がある。何月から何月までかを、誰も正確には知らなかった。
「だいたい、雪が来たら駄目だ」
トマスさんは、そう言った。
「駄目になった年と、ならなかった年がある」
「それは、何が違うのですか」
「さあなあ。運じゃねえか」
運ではない、とわたくしは思った。運に見えるものの下には、たいてい数がある。
峠へ向かう朝、館の門で荷を整えた。
持っていくものは、器械と、測縄と、帳面と、蝋布。それに、麻縄を一巻き。縄は測るためではなく、人と人を繋ぐために持つ。三人が一本の縄で繋がっていれば、ひとりが踏み抜いても、残りの二人で引き上げられる。
食べ物は、パンと干し肉と、塩を少し。塩は、汗をかいたあとに舐める。舐めないと、寒いのに手が震える。これはハーヴェル爺に教わった。
着るものは、重ねる。厚い一枚より、薄い三枚のほうが暖かい。あいだに空気が入るからだ。これは院の手引にも書いてある。書いてあるが、書いた人は北へ来たことがないと思う。三枚重ねると、腕が上がらなくなる。器械の目盛りを読むには、腕を上げなければならない。
だから、いちばん外の一枚は、脱いだり着たりする。測るときに脱いで、歩くときに着る。
この出し入れを、一日に二十回ほどする。
◇
峠道は、九割が上りだった。傾きを測るのに、ニナの歩幅を使った。
同じ子が、同じ速さで、上りと下りを歩く。その歩数の差が、傾きの目安になる。急な坂ほど、差が大きく開く。平らなら差は出ない。
これは器械よりずっと粗い。けれど、器械は雪の吹く峠では据えられない。据えるには、三本の脚を凍った地面に固定して、水平を出さなければならない。風のある日にそれをやると、半刻かけて据えたものが、一度の突風でずれる。
だから、峠は足で測る。ニナは十七回、上って下りた。
「もうやだ」
「あと二回でございます」
「うそだ。さっきも二回って言った」
「……申し訳ございません。あと三回でございます」
ニナは文句を言いながら、三回とも同じ調子で歩いた。この子の値打ちは、そこだった。文句を言っても、歩き方を変えない。
ライナー様は、その様子を斜面の上から見ておられた。三日目に、突然こう仰った。
「俺も数えるか」
「……お願いできますか」
「歩幅は大きい。合わせるなら言え」
その日から、峠の測量は三人になった。
ライナー様の歩幅は、ニナのちょうど倍近くあった。倍だと計算が楽になるかというと、そうでもない。倍の歩幅の人は、坂で歩幅を変える幅も倍になる。
三日目の昼、峠の中ほどで、崩れた石積みを見つけた。
茶屋の跡だという。二十年前まで、峠を越える人がここで湯を飲んだ。いまは屋根がない。石の壁が腰の高さまで残っていて、その内側だけ、風が来ない。
壁の裏に、木の道標が倒れていた。
文字が二つ彫ってある。片方は「シュタイン」。もう片方は、削れていて読めなかった。
「なんて書いてあるの」
ニナが訊いた。
「片方は峠の名でございます。もう片方は、この先の行き先でしょう」
「どこ」
「……分かりません」
わたくしは、その道標の位置を帳面に書いた。ここが風の来ない場所であることも書いた。
いつか誰かが、この壁の内側で夜を明かすかもしれない。
◇
六日で、峠の形が出た。
いちばん急なところが、上り口から数えて三分の二の地点。そこだけ、傾きが他の倍近くある。
その先に、道が北へ曲がる場所がある。曲がったところが吹き溜まりになっていた。北の斜面から雪が落ちて、道の上に溜まる。
わたくしは、その二か所に印を打った。
「荷車は、この二か所で止まります」
館に戻ってから、卓に布を広げて申し上げた。
「急な坂は、雪が固ければ登れます。けれど吹き溜まりは、固くても越えられません。轍が埋まりますから」
「いつ埋まる」
「雪が二尺積んだ日から三日のあいだに、北風が吹くと埋まります。北風が吹かなければ、埋まりません」
トマスさんが「運じゃねえか」と言った、あの年ごとの違いが、それだった。雪の量ではなく、雪のあとの風。
「なら、風の日は」
「越えないでいただきたいのです。越えるなら、荷を担いで、人だけで」
ライナー様は、布の上の二つの印を、指で押さえた。
「ここまでは、荷車で行っていいということか」
「はい。ここまでは、必ず戻れます」
しばらく間があった。
「……そう書いてあるのか、その図には」
「はい」
「王都の図には、書いてあったか」
わたくしは、答えるのに少し時間がかかった。
「峠の線は、引いてございました」
「書いてあったかと訊いている」
「……いいえ」
ライナー様は、それきり何も仰らなかった。
◇
帰りに、峠の上でいちど休んだ。
北の斜面が、そこから一望できる。谷が三つ、重なるように奥へ続いて、その底に川が見えた。細い。この高さから見ると、糸ほどだ。
「ラーン川だ」
フェリクス様が、教えてくださった。
わたくしは帳面を出して、川の曲がりを写した。まだ測っていないので、形だけ。位置は嘘になるから、点線で引いた。
顔を上げたとき、ライナー様が、まだ川を見ておられるのに気づいた。
両手は下ろしたままだった。左手は、いつもどおり手袋をしている。
風が出てきたので、フェリクス様が「そろそろ」と声をかけた。ライナー様は、うなずいて歩き出された。
わたくしは点線を一本引き足して、帳面を閉じた。
この川を測るのは、雪が解けてからになる。そのときは、もっと近くまで行かなければならない。
◇
その夜、館の書庫で、この領の古い図をもう一度出した。
ラーン川は、太い線で引かれていた。川筋の途中に、四角い記号がひとつ。橋の記号だ。
橋の脇には、何も書いていない。いつ架けられたかも、どのくらいの幅かも。
書庫を出るとき、廊下でフェリクス様とすれ違った。燭台を持っておられた。
わたくしの手元の図を見て、それから、何も仰らずに行かれた。
足音が、階段の途中で一度、止まった。
【余白より】シュタイン峠、荷車の限界は二か所。茶屋跡の石壁の内側、風来たらず。
冬の峠が嘘をつく、というのは譬えではございません。雪が谷を埋めますと、そこが平らな道に見えます。夏に測った図をそのまま冬に持ちますと、人はまっすぐ谷へ入ります。
次回、古い坑口へ入ります。図には一つ、現地には三つございました。




