第6話 夜道が、こわくなくなる
数が合わない理由は、ハーヴェル爺が教えてくれた。
正しくは、教えてくれなかった。丘の裾に座ったまま、こう仰っただけだった。
「その子に、上りで数えさせてみなさい」
ニナは文句を言った。下りのほうが楽なのに、と。それでも歩いた。
二百六十一。
下りのときは二百七十八。上りのときは二百六十一。同じ道を、同じ子が歩いて、十七歩ちがう。
下り坂では、人の歩幅は短くなる。転ばないように、体が勝手にそうする。本人には分からない。速さも息も変わらないから、数えているほうは「同じに歩いた」と思っている。
わたくしは、自分でも往復してみた。わたくしの歩幅も、下りで短くなっていた。ニナほどではない。背丈が違うと、傾きの効き方も違う。
「じゃあ、あたしが間違ってたの」
「いいえ」
わたくしは、帳面にニナの数を二つとも書いた。
「上りと下りで数が変わることが分かりましたので、これから、坂の傾きが測れます。歩幅は、ものさしにもなります」
ニナは、しばらく黙って、それから、ふん、と言った。その日から、ニナは毎朝、丘に来るようになった。
◇
村の周りを一枚にするのに、十二日かかった。
クヴェレ村と、その上の水場と、炭焼き小屋が三つ。川が二本。橋は一つ。木立を抜ける道が四本。
全部、歩いた。歩かずに描いた線は一本もない。途中で二度、村の人に直された。
一度目は、川の名前だった。わたくしが「東の川」と書いたら、トマスさんが「そりゃ西の川だ」と言った。村から見ると東だが、水は西から来る。村の人は水の来るほうで呼んでいた。
二度目は、道だった。図の上でいちばん短い道が、実際には冬に使われていない。日陰で凍るからだ。誰も通らないので、雪も踏み固められない。踏み固められないので、もっと通らなくなる。
「そういうのは、歩いてもわかんねえよ」
トマスさんは笑った。
「住んでねえと」
わたくしは、その道に細い斜線を引いた。冬は通らない、という印だ。院にはない記号だった。ここで作ったので、ここで通じればいい。
◇
杭は、全部で四十一本立てた。
道の分かれ目と、木立の切れ目と、川の渡り場。それから、雪の日に道が消える場所。
立てるのは村の人がやってくれた。わたくしは位置を出すだけで、穴を掘る力がない。
冬の土は、鍬が立たない。表の三寸ほどが石のように凍っていて、そこを割らないと下へ届かない。だから村では、まず火を焚く。掘りたい場所で小さく熾して、四半刻ほど置いて、灰をどけてから掘る。溶けるのは表の三寸だけで、それで足りる。
この手順を、わたくしは知らなかった。院の手引には、杭は打つものだと書いてある。打てない土がある、とは書いていない。
トマスさんが火を熾すのを、わたくしは横で見ていた。
「都じゃ、こんなことしねえのか」
「杭を、打っておりました」
「凍った土に?」
「……冬に測ったことが、ございませんでしたので」
杭の頭は、ヘルダさんが黄色く塗った。厨房で使う染め粉を煮出したものだ。赤ではなく黄にしたのは、雪の中で赤は灰色に見えるからだと申し上げたら、ヘルダさんは「じゃあ黄だね」と言って、その日のうちに三十本ぶん煮てくださった。
塗り終わった杭を、ニナが一本ずつ数えた。
「四十一」
「はい」
「一本足りなくない? あんた四十二って言った」
「……申し訳ございません。四十一でございます」
わたくしの数え間違いだった。ニナは、たいそう機嫌がよくなった。
◇
その杭が最初に役に立ったのは、立て終わって四日目の晩だった。
ローデという若い衆が、隣の谷の炭焼き小屋から戻るのに遅れた。前なら、村の男が三人がかりで迎えに出るところだったという。
その晩、迎えは出なかった。
黄色い杭の頭は、提灯の光で遠くから見える。杭から次の杭までは、いちばん遠いところで六十歩。六十歩なら、光が届かなくても、前の杭を背にして数えれば着く。
ローデさんは、ひとりで帰ってきた。
村の入口で、待っていたお母さんが何か言って、ローデさんが面倒くさそうに答えていた。それだけだった。
それだけのことが起きるように、十二日かけて測った。
あとで聞いたら、ローデさんは杭を見ていなかったのだそうだ。
「いつもの道だからな」
それでいい、とわたくしは思った。
杭が見えていることと、杭を見ることは、別のことだ。ふだんは要らない。要るのは、雪が降って、いつもの道が消えて、自分がどこにいるか分からなくなった夜だけだ。
そういうものは、たいてい、要らないうちに立てておかないと間に合わない。
◇
図の下書きが仕上がったので、村の集会所に広げて見ていただいた。
人が十四人集まった。指で辿る人、鼻がつくほど近づく人、腕を組んで動かない人。トマスさんは、自分の家のところを何度も押さえていた。
いちばん時間をかけて見ていたのは、産婆のマルタさんだった。
この方は、夜に呼ばれて出ることが多い。四十年、この谷を歩いておられる。
「これ、ヴィルケの家からうちまで、どっちが早い」
わたくしは、二本の道の長さを申し上げた。北回りが千二百歩ぶん、川沿いが九百歩ぶん。
「そうかい。じゃあ、あたしは今までずっと、遠いほうを走ってたんだ」
マルタさんは笑った。
「川沿いは暗いからね。怖いから、明るいほうを回ってた」
「なら、川沿いに杭を三本、増やしましょう」
わたくしがそう申し上げると、その方は、しばらくこちらを見ておられた。
「あんた、そういうことを、聞かれる前に思いつくのかい」
思いつくのではない。
三百歩の差は、走る人の膝の話で、産婆の膝は四十年ぶん使われている。それを図の上で足し引きできるように、線を引いている。ただ、そう申し上げるのは、うまく言葉にならなかった。
「これ、誰が作ったんだ」
いちばん年嵩の方が、そう仰った。
わたくしは、右下の余白を見た。枠は引いていない。名前も入っていない。
「みなさまでございます」
わたくしはそう申し上げた。嘘ではなかった。川の名前も、冬に凍る道も、この方たちが直してくださった。杭を打った穴は、この方たちが掘った。
それでも、そう申し上げたとき、胸の奥がわずかに軋んだのが分かった。
その軋みには、名前がある。十年、知っている。
◇
館へ戻ると、フェリクス様が玄関で待っておられた。手に、封のついた書状。荷の便ではない。早馬だ。
「王都からです」
封蝋は、王立測図院のものだった。中の文は短かった。
北方測図の任にある者は、現地にて作成した図の原本を、速やかに院へ送付すべし。
わたくしは、二度読んだ。
集会所の卓の上には、まだ、あの図が広げてある。村の人が指で辿った跡が、蝋の上に薄く残っている。
【余白より】杭、四十一本。頭は黄。凍った土は火で溶かしてから掘ること。
誰が作ったのか、と訊かれて、みなさまでございます、とお答えになりました。嘘ではございません。嘘ではございませんが、胸の奥が軋みました。その軋みには、十年ぶんの名前がついております。
第一章「引き返す場所」は、ここまで。王都から原図の提出を命じる書状が届いたあと、次回は冬の峠を測りにまいります。峠は、冬に嘘をつきます。
ブックマークと評価は、杭の一本ぶんとして受け取っております。




