第5話 王都では、誰かの名前で
辺境の朝は、墨が凍るところから始まる。
固形の墨を削って、湯で溶く。溶いたそばから濃くなるので、少しずつしか作らない。硯は懐に入れて外へ出る。測っているあいだじゅう、体温で温め続けなければ、半刻で使えなくなる。
紙は使わない。木綿の布を板に張って、蝋を薄く引いたものを持って出る。蝋を引くと、雪が乗っても墨がにじまない。指で撫でれば消えるので、下図にしか使えないけれど、下図はどうせ何度も書き直す。
院では笑われたやり方だった。紙で足りるものを、なぜ布でやるのか、と。
ここでは、笑う人がいない。
布の端に穴を開けて、紐を通し、腰に下げて歩く。三日でその形に落ち着いた。
一日に測れるのは、天気がよくて、半里ぶんほど。
雪が降ると測れない。器械の覗き穴に雪が入ると、そこで一日が終わる。風が強くても測れない。縄が横に流れて、まっすぐ張れないからだ。曇りは構わない。むしろ、影が出ないぶん読みやすい。
だから毎朝、まず空を見る。北の稜線の上に雲が寝ていたら、その日は測らずに、前の日の数を清書する。
ライナー様は、初日から三日、丘に立っておられた。四日目には来られなかった。五日目には、朝のうちだけ来て、昼には領のご用で出ていかれた。
六日目から、フェリクス様が代わりに来るようになった。
「見張りではありませんからね」
「はい」
「見張りではありませんが、報告はします」
「はい」
フェリクス様は正直な方だった。
◇
王都からの荷が着いたのは、丘の測量を始めて八日目だった。
冬の荷は月に一度。塩と、鉄と、書状。
わたくし宛のものが一通あった。院の封蝋で、差出は写図室。同じ部屋で三年働いた娘の字だった。
北方十二里の清書が終わったこと。年明けに軍務省へ渡ること。それから、少しためらったような字で、こう書いてあった。
——署名は、レーマー様のお名前になりました。
わたくしは、その一行を二度読んだ。驚いたわけではない。十年、ずっとそうだった。ただ、二度読んだ。
文の続きには、写図室の近況が書いてあった。新しい写図生が入ったこと。冬に暖炉の煙が逆流して、一枚だめにしたこと。三年前にわたくしが直した裁ち板が、まだ使われていること。
最後に、こうあった。
——縁は、いつもどおり落としました。
いつもどおり、と、その娘は書いた。責める気持ちはどこにもない。わたくし自身、三年前まで、他人の図の縁を同じように落としていた。
落とすときには、何も感じなかった。そこに何が書いてあるかを、考えたことがなかったからだ。
◇
王都では、写図室の窓が北を向いている。
午前の光は柔らかく、午後は入らない。写図には、それがいい。影が動くと線がぶれるからだ。
オズヴァルト・レーマーは、卓の上に原図を広げて、定規を当てていた。
北方十二里。羊皮紙を三枚継いだ一枚。縁のところに、爪ほどの小さな印が並んでいる。点が二つ。短い横棒。細い斜線。
「レーマー様、こちらの縁は」
若い写図生が、羽根ペンを持ったまま尋ねた。入って二年目の少年だった。
「落とせ」
「印がございますが」
「ごみだ」オズヴァルトは、定規をずらした。「アルストレムの癖でな。几帳面すぎて、余計なものまで書き込む。写しに残すと、読む者が混乱する」
「これは、何なのでしょう」
「知らん。本人に聞け」
そう言ってから、オズヴァルトは少し笑った。
「もっとも、あれはもう北だ。聞けん」
この部屋では、次席の言うことに二度尋ねない。二度尋ねる者は、写図室から測図の外回りへ回される。外回りは、冬に山を歩く。
オズヴァルトは定規を持ち替えて、北方十二里の真ん中あたりを、指の腹で撫でた。三年ぶんの線が、そこにある。
悪い仕事ではない、と彼は思っていた。むしろ良い。素直で、無駄がなく、清書がしやすい。こういう図を引く者を三年遊ばせておいたのは、院にとって損だった。
署名の枠に、彼は自分の名を入れた。
その手つきに、ためらいは無かった。院ではそうしてきた。図は院のもので、院を代表するのは席次のある者で、席次のある者が名を入れる。それが十五年前に彼自身が教わったことだった。教えたのは、いまの院長だ。
少年は、それ以上尋ねなかった。
裁ち板に定規を当てて、原図の縁を、三分ほど落とした。落ちた細長い紙片が、卓の下の屑籠へ入った。点が二つ、短い横棒、細い斜線。全部いっしょに。
残った真ん中には、美しい線だけがあった。
◇
その晩、わたくしは下図を広げて、右下の余白を見ていた。
院の図には、右下に署名の枠がある。二重の細い線で囲って、中に測図者の名と、年と、月を入れる。決まった形だ。十年、その枠を引く手つきだけは誰よりも速くなった。中に自分の名を書いたことは、一度もない。
筆を持って、線を一本引いた。二本目を引く前に、やめた。
この布は、わたくしのものではない。ノルトフェルト領の下図で、館の蝋を使って、館の板に張ってある。ここに名前を入れる筋合いがない。
筆を置いて、引いた一本を指で撫でて消した。蝋の上の墨は、そうすると跡も残らない。
代わりに、帳面のほうに書いた。
帳面には、その日に測った数と、天気と、誰が手伝ってくれたかを書くことにしている。杭を掘ったのはトマスさんとローデさん。歩数はニナ。器械はハーヴェル爺の貸し物。日は曇り、風は弱い。
これは図ではないので、誰の署名も要らない。要らないから、書ける。
院にいたころは、こんな帳面はつけていなかった。数だけ写して、あとは捨てていた。誰が手伝ったかを書く欄が、院の帳面には無い。
◇
窓の外で、犬が鳴いた。
村のほうだ。夜に犬が鳴くのは、人が歩いているからだと、ニナが言っていた。この時刻に外を歩くのは、たいてい遅くなった木こりか、産婆か、どちらかだと。
わたくしは窓のところへ行って、しばらく外を見た。
斜面の下のほう、木立の切れ目に、小さな光が一つ動いていた。提灯だ。ゆっくり進んで、ときどき止まる。止まるのは、道を確かめているからだと思った。
光は、途中で二度、迷った。二度目のとき、はじめに来た方向へ、少し戻った。
わたくしは窓を閉めた。明日、あのあたりの木立に杭を打とうと思った。杭は、三本あれば足りる。
三本の位置は、頭の中でもう決まっていた。木立の入口と、道が二つに割れるところと、その先の斜面。杭は、多ければいいというものではない。多すぎると、どれを目印にすればいいのか分からなくなる。
迷う人は、選択肢が増えるほど迷う。
どうしてそんなに、あの光のことが気になったのか、そのときは考えなかった。
【余白より】蝋引き布、七枚。硯は懐で温めること。夜半、木立に提灯ひとつ。杭は三本で足りる。
帳面には、誰が手伝ってくれたかを書く欄がございます。院の帳面には、その欄がありません。欄が無いというのは、書かなくてよいという意味ではなく、はじめから数えていないという意味でございます。
次回、村の夜道に杭を打ちます。杭は、多ければよいというものではございません。




