第4話 歩幅を測る子
朝、厨房で湯をもらっているとき、フェリクス様が入ってこられた。
「領主が、丘へ行くそうです」
「はい」
「……あの、念のため申し上げますが、あれは『見ている』と言ったら、本当に一日じゅう見ています。座りません。話しかけません。気にしないでください、というのも無理でしょうが」
わたくしは、湯を硯に注いだ。
見られて困る仕事ではない。困るとすれば、その方が見て、それでも信じないと仰ったときだ。
◇
館の裏の丘は、南へ緩く傾いていた。
雪はまだ膝の下ほどある。踏み固めなければ測れないので、まず端から端まで二往復して、道を一本つくった。それだけで半刻かかった。
測量は、いちばん最初の一本で決まる。
基線という。長さの分かっている直線を地面に一本引いて、そこから角を測って、三角で先へ伸ばしていく。この最初の一本が狂うと、あとの全部が同じだけ狂う。だから基線は、平らで、短くて、二度測れる場所に取る。
わたくしは丘の南の裾に杭を打った。金槌の柄が短いので、手袋のまま握ると滑る。片方だけ外して打った。凍った土は、三度目でようやく杭を飲んだ。
「見ていろと言われたが」
斜面の上から、ライナー様の声がした。外套の裾に雪がついている。もう半刻、あそこに立っておられる。
「これは、何をしているんだ」
「基のところを作っております」
「そこは、何もない場所だろう」
「はい。何もない場所から始めませんと、あとが全部ずれます」
ライナー様は、それきり何も仰らなかった。
わたくしは基線の反対の端に、二本目の杭を打った。二本のあいだを測縄で三度測る。三度とも同じ数が出るまで、次へ進んではいけない。一度目と二度目で指二本ぶん違ったので、縄の張り方を直して、四度測った。
それから器械を据えた。丘の上の切り株と、大岩と、遠くの館の煙突。三つを順に覗いて角を読む。読んだ数はその場で帳面に書く。覚えておいて後で書くことを一度でもすると、二度と自分の数字が信じられなくなる。
角が二つと、あいだの長さが一つ。それだけあれば行けない場所までの距離が出る。三角の内側の角を全部足すと決まった数になる、という理屈をつかう。理屈のほうは誰が使っても同じ答えになる。
同じにならないのは、測る側だ。フェリクス様のほうが、耐えられなくなったらしい。
「お嬢様、ここで測るんですか。冬に。雪の上で。正気で?」
「夏には、草が伸びます」
「……なるほど?」
「草が伸びますと、地面の形が見えません。冬のほうが、土地は正直でございます」
◇
測縄を伸ばそうとしたとき、うしろで足音がした。小さい足音だった。速い。
振り返ると、赤い頭巾の子が立っていた。十二か、十三か。頬が赤くて、前髪が眉にかかっている。手には何も持っていない。
その子は、わたくしの手元の縄をじっと見て、それから言った。
「あんたたち、歩幅がばらばらだよ。それで測るの?」
「……歩幅では測っておりません。縄で——」
「縄も伸びるじゃん」
言い終わる前に、その子は歩き出していた。
丘の裾の杭から、上の切り株まで。まっすぐ。速くもなく、遅くもなく、同じ調子で。
途中で一度も止まらなかった。数えているとき、人はたいてい息が乱れる。乱れなかった。
切り株のところで足を止めて、こちらを向いた。
「二百七十八」
そして、靴の底を二度叩いて、土を落とした。
「あたしのほうが早いでしょ」
「……はい」わたくしは、正直に申し上げた。「早うございます」
◇
ニナ、というのだそうだ。
クヴェレ村の子で、母親のヘルダさんが館の厨房を手伝っている。トマスさんの家とは、二軒隣。昨日の騒ぎで、わたくしのことは村じゅうが知っていた。
ここへ来るのに、誰の許しももらっていないらしい。ヘルダさんは薪割りを言いつけて出てきたのだそうで、あとで叱られるのだろうけれど、本人はまるで気にしていなかった。
なぜ来たのかと伺ったら、こう仰った。
「トマスのおじさんが、都の女が変な紙をくれたって言うから」
「変な紙」
「変な紙」ニナは繰り返した。「見にきた」
「あの丸と棒、あんたが描いたんでしょ」
「はい」
「あれ、なに」
「日が傾いたら、そこから先へ行かないでください、という印です」
「ふうん」ニナは、雪を蹴った。「じゃあ、こっちの丸は」
わたくしが広げていた下図を、頭巾のまま覗き込んで、指をさした。
「井戸でございます」
「なんで丸なの」
「桶を上から見ると、丸うございますから」
ニナは少しのあいだ黙って、それから、うん、と言った。
「じゃあ、こっちの三角は屋根で、この波は水だ」
「……よくお分かりですね」
「見りゃ分かるよ」
見れば分かる、と、その子は言った。
図の左下には、村の名前が、わたくしの字で書いてある。ニナの目は、そこを一度も通らなかった。丸と、三角と、波の上だけを、順番に飛んでいった。
わたくしは、そのことを、そのときは何とも思わなかった。
◇
昼を回ったころ、老人がひとり、丘を上がってきた。
背は低い。歩き方が、雪に慣れている人の歩き方だった。膝を高く上げず、足の裏を滑らせて進む。疲れない歩き方だ。
その人は、脇に抱えていた包みを、雪の上でほどいた。
油紙が三重。中から出てきたのは、黒ずんだ真鍮の器械だった。目盛りの刻みが深い。古いが、錆びていない。手入れをされ続けたものの色をしている。
「使うかね」
わたくしは、しばらく声が出なかった。
院の物置にあったものと、同じ型だった。三十年前に作られなくなった型で、今のものより重いかわりに、角の刻みが細かい。
「……どうして、これを」
「昔、王都で測図の助手をしとった」老人は、それだけ言った。「ハーヴェルという。爺でいい」
「王立測図院でございますか」
「そう呼ぶようになったのは、わしが辞めたあとだ」
それ以上は、話されなかった。器械を渡して、少し離れたところに腰を下ろし、あとはずっと見ておられた。ときどき、わたくしが角を読むのを、首を伸ばして確かめるようにして。
◇
その日、丘の南斜面を一枚に収めた。
基線から三角で四回伸ばして、切り株、大岩、館の井戸、村の入口。四つの点の位置が決まった。
最後に、ニナの数と突き合わせた。
二百七十八歩。ニナの歩幅は、平らな道で測ると、およそ二尺三寸。掛ければ、丘の裾から切り株までの距離が出る。
出た数は、縄で測った長さより、短かった。少しではない。二十分の一ほど。
わたくしは二度、計算をやり直した。縄も張り直して、もう一度測った。同じだった。
「どっちが間違ってんの」
ニナが、横から覗き込んで言った。わたくしは、答えなかった。
どちらかが間違っている。それは確かだった。けれど、どちらが、とは、その日のうちには分からなかった。
【余白より】丘の南斜面に基線一本。歩測係の歩幅、下りで短くなる。理由は未詳。
ニナの歩幅は、下りで短くなります。理由は、この時点ではまだ分かっておりません。分からないことを分からないまま帳面に書くのが、この人の癖でございます。
次回は王都へ場面が移ります。写図室で清書が始まりまして、図の右下に名前が入ります。測った者の名前ではございません。




