第3話 引き返す場所
下の階では、男の人たちが四人、外套を着ながら言い合っていた。
クヴェレ村のトマスと、その息子。昨日の朝に橇を引いて上がって、日暮れまでに戻る約束だった。戻っていない。母親が夜のうちに二度、館へ来ている。
「北の斜面から入ります。三人ずつ、二手に」
「無茶だ。今出れば、探しに行った側が戻れん」
フェリクス様が言い、年嵩の男の人が首を振った。窓の外はまだ白い。風は夜半より弱いが、雪はやんでいない。
ライナー様は、壁ぎわに立っておられた。何も仰らない。左手は、昨日と同じように手袋のままだった。
わたくしは、階段の途中で足を止めていた。
入ってはいけない話だと思った。この領の者に道を教えるな、と言われている。
それでも、口が動いた。
「——三つ目の岩の、北の窪みを、先に見ていただけませんか」
部屋が静まったのが分かった。
「都のお嬢さん」年嵩の男の人が振り向いた。「山を歩いたことは」
「ございません。この山は」
「なら黙って——」
「昨日、あの方に地図を返しました」
わたくしは、階段を降りきってから言った。
「炭で描かれた古い一枚です。折り目が擦り切れて、三つに割れかけていました。あの図には、行く道しか書いてありません。ですから、余白に少しだけ書き足しました。三つ目の岩から先へは、日が傾いたら行かない。もし戻れなくなったら、岩から北へ二十歩の窪みへ入る。風が来ませんから」
「……あんた、それを、あの親父に」
「はい」
「読めたのか、あの人に」
わたくしは答えられなかった。それは、確かめていなかった。
◇
結局、六人が出た。
出る前に、わたくしは布を一枚、細く裂かせていただいた。
赤く染めた木綿で、荷の縛りに使っていたものだ。それを掌ほどの長さに切って、二十本ばかり作る。歩きながら、目の高さの枝に結んでいくためだった。
「なんです、それは」
「帰る道です」
フェリクス様が、わたくしの手元を見た。
「行きは、足跡が残ります。けれど雪の日は、一刻もすれば消えます。消えたあとに、探した人が帰れなくなります」
誰も反対しなかった。年嵩の男の人が、無言で半分を受け取って、自分の帯に挟んだ。
ライナー様が先頭で、フェリクス様が最後尾。わたくしは真ん中を歩かせていただいた。地図を持っていたからではない。歩けなくなったときに、前と後ろの両方から見えるからだ。
雪は膝まであった。歩幅が半分になる。半分になると、距離の見当がずれる。人はそれを、疲れのせいだと思う。
だから、数えた。二百。四百。六百。声には出さない。息が減る。
沢の音が右手から左手に移ったところで、わたくしは足を止めた。
「ここから先は、探さなくてよろしいかと存じます」
ライナー様が振り返った。
「理由を」
「昨日の日暮れの刻からです。あの方たちが橇を引いて、雪の中を歩ける速さは、荷があれば一刻に半里ほど。日没まで、二刻ございませんでした。ですから、館から一里より遠くへは行けません」
わたくしは、手袋を外して、雪の上に指で線を引いた。
「この沢の音が、いま左手にございます。これは、館から一里の地点を過ぎた印です。——ここから先は、あの方たちの足では届きません」
誰も、すぐには動かなかった。
「戻れと言うのか」フェリクス様が言った。「行き止まりまで見ずに」
「いいえ。手前を、二度見ていただきたいのです」
人は、遠くを探したがる。遠くまで行ってしまったと思うからだ。
けれど雪の日に人が消える場所は、たいてい、来た道のすぐ横にある。
◇
見つけたのは、それから半刻あとだった。
いや、正しくは、見つけたのではない。
向こうから、降りてきた。
白い斜面の上のほうに、黒い点が二つ。ひとつが大きく、ひとつが小さい。小さいほうが、大きいほうの外套の裾を掴んでいた。
トマスさんは、息子の背を押しながら降りてきて、館の者たちの顔を見ると、そこで初めて膝をついた。
橇は捨てたと言った。薪も捨てた。斧だけ持って戻った。
「三つ目の岩んとこでな」
息が整わないまま、その人は言った。
「日ィ傾いてきたから、坊主が行こう行こうって言うのを、止めたんだ。ゆうべの紙に、そこから先ァ行くなって印があったろう。読めやしねえが、絵は覚えてた。丸と、棒が三本」
懐から、擦り切れた紙が出てきた。
濡れて、端が凍っている。それでも、余白の丸と、三本の横棒は、はっきり残っていた。
「北へ二十歩、っつうから、坊主に数えさせてな。窪みがあった。ほんとにあった」
トマスさんは笑おうとして、うまくいかず、雪の上に手をついた。
「風が、来ねえんだ。あそこだけ」
◇
降りる道では、赤い布が役に立った。
結んだ二十本のうち、十七本が見つかった。三本は、風で飛んだのか、雪の重みで枝ごと下がって埋もれたのだと思う。次からは、結ぶ位置を胸の高さではなく目の高さより上にする。それと、色は赤より黄がいい。雪の白と、赤い布は、日が傾くと同じ灰色に見える。
わたくしは歩きながら、頭のなかで帳面に書いた。ここでは、その帳面を出す手が空いていなかった。
◇
村へ人をやり、母親に知らせた。
その方は、館の門のところまで来て、そこから先へ入ってこられなかった。両手を胸の前で握って、雪の上に立っておられた。トマスさんが「おう」と声をかけて、それでようやく歩き出された。
何も仰らなかった。息子の頬を両手で挟んで、それだけだった。
息子のほうは、指の先が白くなっていたので、フェリクス様が雪で擦っていた。痛がって声を上げたので、大丈夫だと分かった。感じるうちは、まだ助かる。
わたくしは、少し離れて立っていた。
やることが無かった。測るものが無い場所では、わたくしにできることは無い。
足音がして、ライナー様が横に来られた。
しばらく、何も仰らなかった。斜面を見ておられた。それから、雪の上に落ちていたあの紙を拾って、指で泥を払われた。
「この印は、誰が書いた」
「わたくしでございます」
「昨日か」
「はい。……申し訳ございません。この領の者に道を教えるなと、仰せつかっておりました」
ライナー様は、紙をわたくしのほうへ差し出された。左手だった。
手袋の甲のところが、雪で濡れて、革が張りついている。その下の形が、少しおかしいのが分かった。指が、まっすぐではない。
「明日、館の裏の丘へ行く」
「……はい」
「測ってみせろ。俺が見ている前で、端から端まで」
わたくしは紙を受け取った。凍った端が、指に冷たかった。
「まだ、信じたわけではない」
そう言って、ライナー様は先に歩き出された。
雪の上に、大きな足跡が残っていく。歩幅が、来たときより広かった。
【余白より】三つ目の岩より北へ二十歩、風の来ぬ窪みあり。赤い布は雪に紛れる。次は黄で。
地図が人を救いますのは、道が描いてあるからではございません。どこで引き返せばよいかが書いてあるからでございます。この一点だけで、第一部の三十話は成り立っております。
次回、歩幅で距離を測る子が出てまいります。十二歳。この領でいちばん正確な測量器具でございます。
ブックマークと評価をいただけますと、蝋引き布が一枚増えます。




