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婚約破棄は承りました。では、王都へ戻る道はご自分でお探しください 〜追放された地図師令嬢は、辺境伯と「帰れる地図」を作る〜  作者: 白雪こよみ


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第2話 地図を焼く男

 王都から北へ、馬車で六日かかった。


 三日目までは、わたくしの引いた図の上を走っていた。四日目からは、誰も測っていない土地に入った。


 図がある道と、無い道は、乗っていると分かる。図がある道では、御者が迷わない。無い道では、分かれ道のたびに馬を止めて、車輪の跡の深いほうを選ぶ。跡が深いのは、そちらへ行った荷車が多いからで、多いから正しいとはかぎらない。


 五日目の午後、御者は間違えた。半里ほど進んだところで道が細くなり、枯れた沢に落ちて終わっていた。戻るのに一刻かかった。


 わたくしは膝の上の帳面に、その分かれ道を書いた。左が正しい。右は沢で終わる。それだけの、線一本と字四つ。


 書きながら、思った。この一枚を、この御者はもう二度と見ない。この人はもう、この道を覚えたからだ。


 覚えられない人のために、線は引かれる。


    ◇


 ノルトフェルトの館は、石を積んだ四角い建物だった。


 装飾がない。窓が小さい。北側の壁だけが二重になっていて、そこに薪が高く積んである。美しくはないが、この建て方をした人は、この土地の冬を知っていると分かる。


 井戸が、玄関から十四歩の位置にあった。近すぎず、遠すぎない。雪が積もった日に、桶を提げて往復できる距離だ。王都の屋敷なら、井戸は裏へ回す。見えない場所に置く。ここでは、見える場所にある。


 こういうものは、図には描かれない。描く欄が無いからだ。


 迎えに出てきたのは、若い男の人だった。外套の襟に霜がついている。


「王都から測図の方が来られると聞きまして。……本当に来られたんですね」


「リーゼロッテ・フォン・アルストレムと申します」


「フェリクス・ブラント。ここの副官です」フェリクス様は、荷を降ろす手を止めずに言った。「先に申し上げておきますが、うちの領主は紙が嫌いなんです。ええ、燃やすくらいには」


 冗談だと思った。


 そうではないと分かったのは、玄関を入って三歩目だった。


    ◇


 広間の壁に、木の枠が三つ、並んで掛かっていた。


 中身は無い。枠の内側の板が、黒く焦げている。焦げ方に向きがあった。下から上へ、舐めるように。火に入れたのではなく、掛けたまま焼いたのだ。


 枠の下の床石にも、煤が残っていた。何度か洗ったが落ちなかった、という残り方をしている。


「見るな、とは言わん」


 声がして、わたくしは振り返った。


 背の高い方だった。外套も手袋も雪で濡れていて、たった今、外から戻ったところだと分かる。左手だけ、手袋を外していない。


「ライナー・ノルトフェルトだ。王都の書状は読んだ」


「測図の任で参りました。領内の未測地を——」


「地図は信じない」


 言い方に力はなかった。怒鳴られたほうが、まだ受け止めやすかったと思う。この方は、天気の話をするのと同じ調子でそれを言った。


「紙は人を殺す。この領では、そう覚えている」


 わたくしは、焦げた枠をもう一度見た。三つ。三枚ぶんだ。


「……何があったのですか」


「測るのは構わん」ライナー様は、答えずに続けられた。「歩きたければ歩け。書きたければ書け。だが、それで人を歩かせるな。俺の許しなく、この領の者に道を教えるな」


 外套の雪が、床石に落ちて溶けていった。左手の手袋は、最後まで外されなかった。


 ライナー様が出ていかれたあと、フェリクス様が荷を運び上げてくださった。


「気を悪くなさらないでください。あれは、あなたに言っているんじゃない」


「あの枠は」


「十四年前です」


 フェリクス様は、それだけ仰った。


 階段を上がりながら、もう一度だけ振り返って、こう付け足された。


「先代の頃に、隊がひとつ、山で消えました。二十四人。……うちの領で数を数えるときは、二十四から下は使わないんですよ。誰も口にしないだけで、みんな覚えてる」


    ◇


 与えられた部屋は、二階の北の隅だった。


 窓から見えるのは、白い斜面と、その上に黒く立つ針葉樹の列。地平の線が、王都より高い位置にある。山があるからだ。


 荷を解いて、道具を並べた。真鍮の分度器。麻縄を巻いた測縄。針を刺す小さな金槌。羽根ペンは三本。墨は固形のものを二つ持ってきた。この寒さでは液の墨が凍る。


 測縄は、湿ると伸びる。伸びた縄で測ると、土地は実際より小さく出る。だから使う前に必ず、部屋の柱と柱のあいだで、持ってきた真鍮の物差と突き合わせる。今日は、二十歩ぶんで指一本半、伸びていた。乾かしてから、もう一度合わせなければならない。


 王都では、この作業を月に一度やればよかった。ここでは、たぶん毎日になる。


 紙も出した。羊皮紙は高いので、下図には木綿の布を使う。布を張って、蝋を薄く引くと、雪の中でも墨がにじまない。院では笑われたやり方だった。紙で足りるものを、なぜ布でやるのか、と。


 最後に、帳面を開いた。


 今日の午後、館の手前の坂で、薪を積んだ橇とすれ違った。引いていたのは中年の男の人と、十四、五の男の子だった。親子だろうと思った。顎の形が同じだった。


 道を尋ねたとき、男の人は懐から一枚の紙を出した。


 紙というより、布に近くなっていた。折り目のところが擦り切れて、繋がっているのは糸のような繊維が数本だけ。誰かが炭で描いた線と、丸がいくつか。獣道と、水場と、炭焼き小屋。


「爺さんが描いたやつでね」男の人は笑った。「あってるかは知らねえが、これしかねえ」


 わたくしは、少しだけ見せていただいた。


 線は、驚くほど正確だった。歩いた人が描いたものは、たいていそうだ。距離は嘘をつくが、順番は嘘をつかない。


 ただ、この図には、帰る話が書いていなかった。


 行く道は描いてある。水場も、小屋も。けれど、どこまで行ったら引き返さなければならないか、が無い。


 だから、返すときに、余白へ少しだけ書き足した。


 三つ目の岩のところに、小さな丸をひとつ。その脇に、短い横棒を三本。


「日が傾きはじめたら、ここから先へは行かないでください。ここまでなら、暗くなる前に戻れます」


「ふうん」


「もし戻れなくなったら、この丸のところから北へ二十歩ばかり、窪みがございます。風が来ません」


 男の人は、紙をたたんで懐に入れた。ありがとう、とは言わなかった。都から来た娘の言うことだと思ったのだろう。それでいいと思った。


 言わなかったことが、ひとつある。この紙には、雪の話が一行も書いていない。


    ◇


 夜半、風の音が変わった。


 窓を開けると、雪が横に走っていた。斜面の黒い木立が、もう見えない。


 閉めて、寝台に戻った。朝、下の階が騒がしくなった。


 薪を運ぶ親子が、昨日から山を降りていないと、誰かが叫んでいた。

【余白より】館の玄関から井戸まで十四歩。測縄、二十歩ぶんで指一本半の伸び。


麻の測縄は、濡れると伸びます。上の一行は、その伸びを測って書いたものでございます。測る前に必ず張り直しますのは、そのためで、この作品の数字は、だいたいこういう理屈で出ております。


吹雪の夜に、薪を運ぶ親子が山から下りてまいりません。次回は、前の日に余白へ書き足した、丸ひとつと横棒三本の話でございます。

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