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婚約破棄は承りました。では、王都へ戻る道はご自分でお探しください 〜追放された地図師令嬢は、辺境伯と「帰れる地図」を作る〜  作者: 白雪こよみ


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第1話 線を引くだけの女

「紙に線を引くだけだ」と婚約破棄された地図師の令嬢が、辺境で帰り道の書いてある地図を作ります。

剣も魔法も聖女の力もありません。武器は、歩幅と星と、余白に打つ小さな点。

 ジークベルト様が三度目に「裏切り」という言葉をお使いになったとき、わたくしは広間の柱を数え終えていた。


 右の壁に六本、左に六本。柱と柱のあいだは十二歩。玉座から扉までは四十七歩で、そのうち二十歩ぶんは絨毯が浮いている。つまずく人が出る配置だ。この広間の図面を引いた人は、たぶん一度もここを歩いていない。


「聞いているのか、リーゼロッテ」


「はい。四十七歩でございます」


「……何の話だ」


「申し訳ございません。癖でございます」


 癖だった。部屋に入れば測る。道を歩けば数える。そうやって十年、わたくしは紙の上に線を引いてきた。


 その一枚にも、わたくしの名前は載っていない。


    ◇


 呼び出しの使いが来たのは、その日の朝だった。


 わたくしは王立測図院の写図室にいて、北方十二里の原図に最後の註を入れているところだった。使いの少年は入口で三度ためらい、それから、公爵家の紋の入った封を差し出した。急ぎでございます、と言った。


 筆を置いて、指を洗った。羽根ペンの軸を握る右の中指のつけ根には、十年ぶんの墨が沈んでいる。石鹸でも落ちない。手袋で隠して、わたくしは馬車に乗った。


 広間に着いてみると、ジークベルト・エッシェンバッハ様はすでに立って待っておられた。


 この方は、この春に軍務省の遠征課へ移られた。北の街道をひらき、鉱山までの道を通す。若い参事官にとっては、名を上げるのにこれ以上ない仕事なのだという。婚約者の顔を見にいらしたのは、半年ぶりだった。


「君は夜会に出ない。舞踏も刺繍もしない。父上に何と説明しろというんだ」


「王立測図院におりました」


「だから言っている」ジークベルト様は、手袋の指で卓を打った。「君の仕事は、紙に線を引くだけだ。誰が引いても同じものが出る。それを十年やって、君は何を得た」


 答えられなかったのではない。答えの形が、この方に渡せる形をしていなかった。


 わたくしが十年で得たものは、たとえば、王都から北へ二十里の地点にある涸れ沢が、六月の半ばから九月まで水を失うということだった。ヴェルデ峠の南斜面が、雨から三日のあいだ崩れやすいということだった。ローゼン村の井戸は、夏に濁るということだった。


 どれも、線ではない。線と線のあいだの、余白に打つ小さな点だ。


 わたくしはそれを、原図の縁に、爪ほどの大きさで書き込む。夏に枯れる沢には点を二つ。崩れる斜面には短い横棒。日の落ちる刻の早い谷には、細い斜線を一本。


 全部、歩いて確かめた。沢は三度、季節を変えて見に行った。峠の斜面は雨のあとに登って、土を握って崩れ方を見た。村の井戸は、桶を下ろして水を舐めた。


 院の誰も、その点を写さない。清書のときに縁を切り落として、真ん中の線だけを残す。線だけのほうが、美しいからだ。


「それに」と、ジークベルト様は続けられた。「測図院の図には、レーマー殿の署名がある。君のではない」


「……はい」


「つまり、そういうことだ」


 そういうことだった。


 わたくしが引いた図に、わたくしの名前が載ったことは、一度もない。


    ◇


 婚約の解消は、その日のうちに決まった。


 ついでのように、もうひとつ決まったことがある。北方測図の任。ノルトフェルト辺境伯領へ赴き、領内の未測地を測ること。期限は定めない。帰還の命は追って出す。


 追って出す、という言い方を、わたくしは書類の上で何度も見たことがある。出たためしがない。


「ああ、それから」


 ジークベルト様は、思い出したように仰った。


「北方の図は、写しを取らせて遠征に持っていく。三年ぶんの測量だ、無駄にはしない。……安心しろ。君の仕事は、ちゃんと役に立つ」


 わたくしは、顔を上げた。


「写しは、どなたが」


「写図室の者だろう。誰でも同じだと、さっき君も認めたはずだが」


 そうではありません、と申し上げようとした。


 けれど、どこから話せば伝わるのか、その道筋が思い浮かばなかった。涸れる沢の点二つを、この方に説明するには、六月の半ばに一度、あの沢まで行っていただくよりほかにない。


 わたくしは、口を閉じた。


「北は寒いぞ」


 書状を渡しながら、ジークベルト様はそう仰った。気遣いではなかった。この方は、寒いという事実を、罰の一部として口にしておられた。


「王都に戻りたくなっても、私に泣きついてくるな。君の席はもう無い」


 わたくしは、書状を受け取った。紙は院で使うものより厚く、目が粗い。墨のにじむ紙だ。急いで書かせたのだと分かった。


「婚約破棄は、承りました」


 声が思ったより静かに出たので、自分でも少し驚いた。


「では、王都へ戻る道は、ご自分でお探しくださいませ」


 ジークベルト様は、笑われた。


 負け惜しみだと思われたのだと思う。わたくしもそのとき、半分はそのつもりだった。


 広間を出るとき、わたくしは扉の手前でいちど膝をついた。


 浮いていた絨毯の端を、敷石の目地に沿って押し込む。埃が指の腹について、細かい毛が二本ついてきた。これで、次にここを通る人はつまずかない。


 誰も見ていなかった。見られていても、たぶん同じことをした。


    ◇


 院へ寄って、原図を返した。


 北方十二里ぶんの一枚は、羊皮紙を三枚継いである。継ぎ目は膠で留めて、裏から細い麻布を貼った。三年かけて歩いた道が、そこに入っている。


 次席のオズヴァルト・レーマー殿は、それを卓の上で広げ、真ん中のあたりを二度、指の腹で押さえた。


「よく引けている。線が素直だ」


「ありがとうございます」


「清書は明日から始める。縁は落とせ。ここのごみを残すと、写しを取るときに読み違える者が出る」


 ごみ、と、レーマー殿は仰った。涸れる沢の点二つを、爪の先で軽く弾くようにして。


 わたくしは、はい、と申し上げた。ほかに言うことがなかった。この方が悪いのではない。院ではずっとそうしてきたし、そうやって出来上がった図で、王都は今日まで困っていない。


 それでも、巻き直すときには、いつもどおりにした。


 紙は芯に対して裏を内側にして巻く。きつく巻けば癖がつき、緩く巻けば運ぶ途中で折れる。指三本ぶんの隙間を残して、麻紐を二重にかけ、端は引けばほどける結び方にする。急いで開く人がいるかもしれないからだ。


 この巻き方を、わたくしは十年やってきた。教わったのではなく、折れた図を三度直して覚えた。


 巻きを置いて、部屋を出た。廊下は墨と膠の匂いがする。十年、毎朝この匂いのなかを歩いてきた。


    ◇


 王都の北門は、日の出とともに開いて、日没とともに閉まる。


 馬車が門をくぐったとき、うしろで閂の落ちる音がした。木の音ではなく、鉄の音だった。去年、付け替えられたのだ。


 わたくしはそれを聞きながら、いつものように数えはじめていた。


 門から街道の第一里塚まで、二千四百と七十六歩。


 数えたところで、何になるわけでもない。癖だ。


 窓の外で、王都の壁が、ゆっくりと低くなっていった。

【余白より】王都北門より第一里塚まで、二千四百七十六歩。手袋のまま数えた。


王都の写図室で十年、他人の名前で図を引いてきた女が、辺境へ送られる話です。声を荒らげる場面は、ほとんどございません。この人は怒る代わりに、歩数を数えます。


次回、辺境で待っておりますのは、地図を焼いた男でございます。紙は人を殺す、と申します。


続きが気になりましたら、ブックマークと下の☆☆☆☆☆から評価をいただけますと、墨が一挺買えます。

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