第10話 写しの写し
その日のうちに、ライナー様へ申し上げた。
卓に帳面を広げて、峠から谷までの日程と、日の翳る刻を並べた。三日目の夕に、隊が谷の中ほどへ入ること。そこが、日の入りより二刻早く暗くなること。東の斜面の土が緩いこと。
ライナー様は、最後まで聞いてから、一言だけ仰った。
「間に合うか」
わたくしは、指を折った。
館から峠まで二里半。峠を越えて、谷の入口まで二日。今から発って、休まずに歩いて、四日。
隊がそこにいるのは、三日目の夕。
「……間に合いません」
「何かできることは」
「峠の向こうのミュール村へ、早馬をやることはできます。あの村から谷の入口までなら、一日半でございます」
「一日半で、三十二人に追いつくか」
「追いつけません。ですが、村の者が谷の入口に立って、日暮れの前に止められれば」
ライナー様は、少しのあいだ黙っておられた。
「ミュールは、この領ではない」
わたくしは、顔を上げた。
「向こうの領主に、うちが軍務省の遠征を止めろと言えば、越権になる」ライナー様は続けられた。「頼むのなら、理由を書いて出す。理由は何だ」
「東の斜面が、崩れます」
「証拠は」
「三年前に、わたくしが土を握りました」
「握った、では、動かん」
その通りだった。わたくしは、帳面を閉じようとして、途中で手を止めた。
「……ひとつ、ございます」
「言え」
「あの斜面には、木が生えておりません。周りの尾根には生えております。あそこだけ、生えていないのです」
ライナー様が、こちらを見た。
「三年前に見たときは、なぜだろうと思っただけでした。けれど、木が育たない斜面は、育つ前に何度も崩れている斜面でございます」
しばらくして、ライナー様は立ち上がられた。
「フェリクス。馬を出せ」
◇
早馬は、その日の夕方に出た。
冬の早馬は、飛ばせない。飛ばせば馬が転ぶ。だから速さを出すのではなく、替え馬を置いて休まずに進む。ノルトフェルトからミュールまでのあいだに、替えの利く家が二軒ある。二軒とも、ライナー様が名前で覚えておられた。
乗るのはローデさんに決まった。若くて軽いからだ。重い者を乗せると馬が保たない。
鞍にくくりつける荷は、書状ひとつと、飼葉と、火打ち。それだけ。
ミュール村の領主宛ての書状には、木のことだけを書いた。土を握った話は書かなかった。書いても動かないと、もう分かっていた。
書状を持たせたあと、わたくしは館の廊下で、しばらく立っていた。
やることが、なくなってしまった。
こういうとき、院にいたころは、次の図に取りかかった。次があるからだ。ここには次が無い。
結局、その晩は峠の図を清書した。清書しなくていい図だった。もう清書してある。二枚目を作った。
二枚目を作りながら考えていたのは、三年前のことだった。
あの斜面へ登ったのは八月で、蝉が鳴いていた。土は乾いていて、握ると粉になった。粉になる土は雨で流れる。流れた跡が斜面に何本も走っていて、その跡の上には草も生えていなかった。
わたくしはそれを見て、余白に短い横棒を一本引いた。引くのに三秒もかからなかった。
三秒で引いた線を、誰かが三秒で落とした。
落とした人を責める気持ちは、そのときはまだ湧いてこなかった。落とすのが院の作法で、わたくしはその作法の中で十年働いていた。責めるなら、自分も一緒に責めることになる。
筆が止まっていた。
墨が穂先で固まりかけていたので、湯に浸して、指で揉んだ。
◇
三日目は、風の強い日だった。
朝から北の稜線に雲が寝ていて、測れない日だと分かった。
わたくしは厨房の隅に座って、ヘルダさんが豆を選るのを見ていた。手伝おうとしたら、あんたは手が違うと言われた。石を弾く手つきが、その通りだった。三粒に一粒、石を残した。
「都のお嬢さんは、指が細いね」
「筆を持つだけでございましたので」
「うちの子は、あんたのこと、よく喋るよ」ヘルダさんは、豆を選りながら仰った。「歩いた数を、あの人は書いてくれるんだって」
わたくしは、返事に困った。
「あの子ね、数は数えられるんだ」
ヘルダさんの手が、少し止まった。
「数は、数えられるんだよ」
その言い方に、何かがあった。
わたくしは、そのときそれを尋ねなかった。尋ねる場面ではないと思った。あとで、尋ねておけばよかったと思った。
◇
四日目の昼過ぎに、早馬が戻った。
ミュール村の男が二人、うちの伝令と一緒に、雪をかぶって門を入ってきた。
馬から下りる前に、そのうちの一人が叫んだ。
「谷で、崩れた」
わたくしは、卓に手をついた。手のひらの下で、地図が滑った。
紙が滑るというのは、ずいぶん静かな出来事だった。人が十三人いなくなった知らせを聞いて、体が最初にしたのが、紙を押さえることだった。
三十二人のうち、十九人が谷の入口まで戻った。残りが、十三人。
崩れたのは、三日目の夜半。野営は、東の斜面の下だった。風が来ないので、そこに天幕を張ったのだという。
ローデさんは、間に合っていた。
ミュール村には二日目の朝に着いた。村の領主は書状を読んで、その日のうちに人を出した。出した人は、谷の入口に立った。
立ったのは、四日目の朝だった。
ミュールから谷の入口まで一日半。書状を読んで人を集めて出すのに、半日。合わせて二日。届いたのは二日目の朝で、隊が谷に入るのは三日目の夕。
計算は合っていた。合っていて、届かなかった。村の男は、途中で二度、道を間違えたのだという。夜に歩いたことのない道だった。
◇
救援の要請は、その日の夕方に届いた。
書式は整っていた。軍務省遠征課の用箋で、必要な物資と人数が、箇条書きで並んでいる。ノルトフェルト辺境伯領に対し、地理に明るい者の派遣を求める、とあった。
わたくしは、その紙を最後まで読んだ。末尾に、署名があった。遠征課参事官、ジークベルト・エッシェンバッハ。筆跡を知っていた。婚約の書類で、三度見た字だった。その下に、もう一行あった。
——なお、当隊の携行図は王立測図院の正図に基づくものであり、経路の選定に瑕疵はない。
救援を求める文書に、なぜその一行が要るのか、わたくしにはすぐには分からなかった。
フェリクス様が、横から覗き込んで、短く息を吐かれた。
「先に書いたんですよ。責任の話が始まる前に」
「……人が、まだ雪の下におります」
「ええ。だから先に書くんです」
わたくしは、その紙を卓に置いた。
紙は院のものより上等だった。目が細かくて、墨がにじまない。急いで書いたのではない紙だった。
【余白より】早馬一騎、替え馬の利く家が二軒。計算は合っていた。合っていて、届かなかった。
この作品の悪は、たいてい悪意ではございません。余白を写さなかった、という事務のほうでございます。誰も嘘をついておりませんのに、人が谷で止まります。
次回、雪を掘ります。生存者が、地図には橋があった、と申します。
評価の☆は、夜通し灯す油の代わりに受け取っております。




