第29話 二つの条
正図規定の改正告示が出たのは、九月だった。
ずいぶん薄い紙が来た。告示は、量が少ないほど重い。長いものは、たいてい但し書きが多い。
改正は二条だった。
第一条。実在しない構造物を、実線をもって記載してはならない。計画中の構造物は破線とし、着工の有無を欄外に付記する。
第二条。原図には、実地の測量を行った者の氏名を記載する。清書図には、原図の測量者名を併記する。
わたくしは、二度読んだ。二度目は、声に出して読んだ。誰もいない部屋で。
◇
第二条には、続きがあった。
——本条は、遡及して適用する。院に現存する原図のうち、測量者が判明するものについては、順次記載を補う。
三百枚を点検している人が、その作業のついでに、名前を書き足していくことになる。
自分の名前が入っている図の脇に、測った人の名前を書き足す。
三百回。その作業を、誰が命じたのかは、告示には書いていない。告示が来た日、わたくしは村の壁の図の前に立った。
字のない図のほうだ。板に麻布を張って、三年前に貼ったもの。雨風は当たらないが、集会所の中は煙が入る。上のほうが少し煤けていた。
この図には、実在しない構造物が一つも描かれていない。描く理由がなかったからだ。この村には、まだ無いものを紙の上に置いてまで通したい申請が無い。
二条とも、この村では守るまでもなく守られていた。
規定というのは、守れない場所のために作る。守れる場所のために作るのではない。
だから、この二条は王都のために作られたのだと思った。
◇
北方十二里の原図に、わたくしの名が入ったという知らせは、十月に来た。
写図室のあの娘の手紙だった。
——右下の枠の下に、もう一行、枠が足されました。「原測量 リーゼロッテ・フォン・アルストレム」と書いてあります。
——枠を引いたのは、レーマー様です。二重の細い線で、あいだが爪の幅でした。あの引き方は、リーゼが教えたものですよね。
わたくしは、その手紙を、しばらく持っていた。
枠の引き方は、わたくしが教えたものではない。院で代々そうなっている。ただ、写図室であの引き方をするのは、わたくしとあの娘と、あと二人ほどだった。
オズヴァルト殿は、次席として、写図室のやり方を見ていた。見ていた人が、いま、自分の手で引いている。
◇
同じ便に、軍務省の人事の告示も入っていた。北方街道整備計画は、いったん停止。遠征課の編成が変わり、参事官が二人減った。
ジークベルト・エッシェンバッハ様は、北方監視所付、記録係。
監視所は、峠を越えた先、ミュール村のさらに北にある。冬は雪に閉ざされる。仕事は、通行の記録と、天候の記録と、道の状態の記録。
記録係は、毎日、道を歩いて確かめる。参事官から記録係は、二段の降格だった。
ただ、監視所の記録は、王国で最も古い記録の一つでもある。八十年ぶんが残っている。八十年ぶんの通行と天候が、あの小さな建物に積んである。
使い方を知っている者が行けば、あれは資料になる。誰がその人事を決めたのかは、告示に書いていない。
◇
その方が峠を越えていかれたのは、十一月の初めだった。通り道になるので、館の前を通られる。
馬車ではなく、馬だった。荷は鞍の両側に振り分けて、随員は一人もいない。
門の前で、いちど止まられた。
わたくしは、ちょうど外にいた。冬に備えて、杭の頭を塗り直していたところだった。
「リーゼロッテ」
「はい」
その方は、馬から下りられなかった。下りると、話が長くなると思われたのだと思う。
「監視所の図が、要る」
「はい」
「あそこには、無い。あるのは十年前の写しだけだ」
「お作りいたします」
わたくしは、そう申し上げた。
「ただ、雪が解けてからになります。冬の道は、冬に測らねばなりませんので、来年の冬に一度、そのあとに」
「二年か」
「二年でございます」
ジークベルト様は、うなずかれた。それから、こう仰った。
「その二年、私が歩いた記録を送る。使えるものがあれば、使ってくれ」
◇
わたくしは、頭を下げた。下げてから、ひとつだけ伺った。
「記録は、何をお書きになりますか」
「通った者の数と、天候と、道の状態だ」
「それでしたら、ひとつ、お願いしてもよろしいでしょうか」
「言え」
「日の落ちた刻を、書いていただけますか」
その方は、少し黙られた。
「……刻を」
「はい。谷ごとに、日の落ちる刻が違います。二年ぶん集まりますと、どの谷がいつ暗くなるか、暦が作れます」
ジークベルト様は、鞍の上でしばらく動かれなかった。それから、短く笑われた。
笑ったのを、わたくしは初めて見た気がした。婚約していた三年のあいだにも、一度もなかった気がする。
「君は、変わらないな」
「はい」
「……いや。変わったか」
その方は、手綱を引かれた。
「送る。毎月」
◇
馬が峠道へ入っていくのを、門のところで見ていた。やがて木立に隠れて見えなくなった。わたくしは、塗りかけの杭に戻った。
黄色い染め粉は、二度塗る。一度目が乾いてから二度目を塗ると、雪に埋もれても色が残る。ヘルダさんが煮出したものだ。
塗りながら、頭の中で二年ぶんの暦を組み立てていた。
谷が四つ。監視所までの道に、あと三つ。合わせて七つの谷の、日の落ちる刻。
二年で集まる。集まったら、それを図の余白に書く。書ける欄が、来年からある。
塗り終わった杭を、丘の上から数えた。四十一本のうち、この秋に打ち直したのが九本。冬の凍みで浮くものが毎年出る。
浮いた杭は抜けやすい。抜けた杭は、無い杭より悪い。あると思って探した人が、見つけられずに立ち止まる。
だから、秋に一本ずつ揺すって確かめる。揺すって動くものは、その場で打ち直す。
この点検を、去年から村の若い衆が手伝ってくれるようになった。今年は、わたくしが行く前に、六本が直っていた。
◇
その晩、フェリクス様が広間で告示を読み返しておられた。
「これ、うちの領の話が全部入ってますね」
「はい」
「橋も、名前も」
「はい」
「……勝ったんですか、これ」
わたくしは、少し考えた。勝ったという言い方は、しっくりこなかった。
オズヴァルト殿は写図室で三百枚を点検している。コンラート殿は六十を過ぎて北の山を歩いている。ジークベルト様は監視所で通行の数を数える。
誰も、いい思いをしていない。
わたくしも、していない。十一人は帰ってこなかった。二十四人も帰ってこなかった。
「まだ、途中でございます」
わたくしは、そう申し上げた。
「壁の図に、対岸が入っておりません」
【余白より】二条。日の落ちた刻を、毎月送っていただけることになった。
勝った、という言い方は、しっくりまいりません。誰もいい思いをしておりません。十一人も、二十四人も、帰ってきておりませんので。
次回、第一部の最終話。壁の図に、対岸が入ります。




