第28話 二十四の名前
コンラート殿が発たれたのは、五月の初めだった。
起案の写しを一部、館に置いていかれた。原本は院で決裁される。決裁するのは院長で、それは起案した本人だった。
自分で起案して自分で決裁する。手続きとしては、それでよい。
ただ、この起案には、もうひとつ添えられていた。北方遠征調査委員会への、追加の陳述書。
中身は、起案と同じことが書いてある。書いてあるが、宛先が違う。委員会に出せば、委員会が判断する。判断されるのは、起案した人だった。
発つ前に、その方は広間で、ライナー様にこう仰った。
「橋を架けるなら、申請の書き方は教える」
「頼む」
「二年はかかる。予算は一度で通らん」
「構わん」
それが、二人の最後のやりとりだった。
◇
王都で結論が出たのは、七月だった。便で届いた告示を、フェリクス様が読み上げた。
王立測図院長 コンラート・ヴァイルに対し、以下を命ずる。
一、北方地区における全測図の記載事項について、実地による再検分を行うこと。
二、再検分は起案者本人が現地に赴いて行うこと。代理を認めない。
三、期間は三年とする。
罷免ではなかった。
院長の任は解かれ、実地検分官という役職が新しく作られた。作られたのは、この一件のためだけだった。
「……これ、罰なんですか」
フェリクス様が、読み終えて仰った。
「六十過ぎの人に、三年、山を歩けって言ってるんですけど」
「罰でございましょう」
わたくしは、そう申し上げた。
「ご自分が描いた線を、ご自分の足で確かめてこい、ということでございますから」
◇
実地検分官という役職の名を、わたくしは初めて聞いた。
院の役職はどれも古い。三十年に一度しか増えない。新しい名を作るのは面倒な手続きで、面倒な手続きを踏んでまで作ったということは、誰かが本気で作らせたということだった。
誰が本気だったのかは告示に書いていない。その告示には、続きがあった。
実地検分の結果に基づき、正図の改訂を行う。改訂に際しては、地方において用いられている記載方式のうち、汎用性の認められるものを規定に加えるものとする。
九つの印のことだった。それから、もう一行。
——正図の欄外に、当該地域の地方図の所在を注記するものとする。
わたくしは、その一行を三度読んだ。三度読んで、蝋布を出して、余白に写した。
紙に写せばよかったのだけれど、そのとき手元にあったのが蝋布だった。指で撫でれば消えるものに、いちばん消えてほしくない一行を書いた。
あとで、紙に書き直した。
◇
オズヴァルト・レーマー殿の話も、便に入っていた。写図室で、三百枚の再点検を続けておられるという。
一日に三枚。全部終わるのに、二年近くかかる計算だった。
三枚というのは、少ない数ではない。点検は、清書より手間がかかる。図を見て、記録を出して、現地の報告と突き合わせる。突き合わせるものが無ければ、無いと書く。
無いと書くのが、いちばん時間のかかる作業だった。
点検の結果は、一枚ずつ報告書になる。誤りが見つかれば改訂を起案する。起案には理由が要る。理由の欄に、その方は毎回、こう書いておられるらしい。
——署名者の確認不足による。
三百回、同じ理由を書く。わたくしは、それを聞いて、しばらく何も言えなかった。同じ便で、写図室のあの娘から手紙が来ていた。
——レーマー様が、余白の読み方の写しを、写図室の壁に貼りました。
わたくしが送った一枚だった。二十六の印を並べた紙。
——ご本人が、何も言わずに貼られました。誰も理由を聞きません。
わたくしは、その二行を何度か読んだ。
あの方が、いま、どういう気持ちであの紙を貼ったのかは分からない。分からなくていいと思った。
貼ってあれば、次に入った写図生は、縁を切る前に一度、その紙を見る。
◇
八月に、フェリクス様が名簿を書き写す日が来た。
毎年、同じ日にやるのだそうだ。隊が出た日ではなく、戻らないと分かった日。
その日、館の広間には、ライナー様と、フェリクス様と、村から五人ほどが集まった。
わたくしも、入れていただいた。
支度は簡単なものだった。卓を壁ぎわに寄せて、その上に帳面と、墨と、筆を一本。
誰も喪服は着ていない。トマスさんは仕事着のままで、袖に木屑がついていた。
この領では、この日に特別なことをしない。畑は休まないし、厨房も動いている。ヘルダさんは、名前を書き終わるころに湯を持ってきた。
そういう扱い方をされる日が、十四年続いてきた。
特別にしないというのは、忘れないやり方のひとつなのだと思う。特別にすると、その日だけのものになる。
フェリクス様が、新しい頁に、上から順に名前を書いていく。
字は、丁寧だった。速くはない。二十四人ぶんに、半刻かかった。
最後の一つ前に、先代の辺境伯の名。最後の一つは、空欄。罫線だけを引く。書き終えて、フェリクス様が筆を置いた。誰も、何も言わなかった。
◇
そのあと、ライナー様が広間の壁の図の前に立たれた。ラーン川のところ。四角二つと、そのあいだの点三つ。
「ここに、いつか橋を架ける」
その方は、そう仰った。
「架けたら、この印を消せ」
「はい」
「消すときは、お前が消せ」
わたくしは、はい、と申し上げた。それから、少し考えて、こう付け加えた。
「消しませんで、書き換えます」
「同じことだろう」
「違うと存じます」
わたくしは、壁の図の、その場所を指した。
「橋を架けた年を、脇に入れます。それまで無かった、ということも一緒に残ります」
ライナー様は、しばらく壁を見ておられた。
「……そうか」
「はい」
「そうしてくれ」
◇
その日の夕方、ニナが館へ来た。
手に紙を持っている。自分で切った紙で、端が斜めになっている。
「見て」
わたくしは、受け取った。字が三つ書いてあった。ニナ、と、二文字。それから、その下に、もう一文字。
「なんて読むか、わかる?」
「……はい」
「言って」
わたくしは、その一文字を読み上げた。水、と読む字だった。ニナが、笑った。
「歩測係のニナは、もう覚えた。次は水場を全部書けるようになる」
その子は、そう言って、紙を取り返して、走って帰っていった。
水場は、この領に三十一ある。
全部を字で書けるようになるのに、どのくらいかかるだろうか。数えたら、三年ではきかない気がした。
三年あれば、あの子は十五になる。
わたくしは、門のところに立って、走っていく背中を見ていた。それから、館へ戻って、帳面に一行書いた。
——水場、三十一。歩測係が字を覚えるまで、記号を残すこと。
【余白より】実地検分、三年。再点検、三百枚。一日に三枚。
糾弾はいたしません。名簿を出すだけでございます。この作品の決着は、最後まで、書いてあるものを卓に置くだけで済みます。
次回、規則に二つの条が入ります。実在しない構造物を実線で描かないこと。もう一つは、次回に。
ブックマークと評価は、水場を三十一か所ぜんぶ書き入れる紙の代金に充てさせていただきます。




