第27話 線は書き直せる
名簿は、革の表紙のついた薄い帳面だった。
フェリクス様が持ってこられた。表紙は擦り切れていて、角が丸くなっている。十四年ぶん、毎年開かれている。
中は、同じ頁が十四枚あった。
一枚目は、字が下手だった。二枚目も。三枚目まで同じ手で、四枚目から字が変わる。
「うちの親父が三枚まで書きました」
フェリクス様が、そう仰った。
「四枚目からが、私です」
紙は、途中で二度、質が変わっていた。
最初の四枚は厚い。次の六枚は薄くて、少し黄ばんでいる。最後の四枚は、また厚い。
その年に手に入る紙で書いている。十四年のあいだに、この領の景気が二度上下したということだった。
名前は、二十四。
順番は、隊列の順だという。誰が先頭で、誰が最後尾だったか。戻ってきた一人の記憶で、その順に並んでいる。
最後の一つ前に、ノルトフェルトの名がある。先代の辺境伯だった。
最後の一つは、書かれていない。空欄になっている。
空欄には、罫線だけが引いてある。名前の入る幅ぶん、きちんと空けてある。写すたびに、その空欄も一緒に写している。
わたくしは、その空欄を長く見た。
図でも同じことをする。分からない場所は、埋めずに空けておく。埋めてしまうと、あとから来た人が、そこは調べ済みだと思ってしまう。
空けてあれば、いつか誰かが埋めに行く。
「これは」
「戻ってきた男です」フェリクス様が答えられた。「名前を入れるなと、本人が言ったので」
◇
コンラート殿は、その帳面を、頁をめくりながら見ておられた。
十四枚。全部、同じ二十四人。めくる速さが、だんだん遅くなった。最後の頁で、手が止まった。
「……これは、毎年、書き写すのか」
「はい」
「増えも減りもしないものを」
「はい」
その方は、帳面を閉じられた。閉じてから、こう仰った。
「線は、書き直せる」
◇
わたくしは、その言葉を、はっきり聞いた。
言い訳として仰ったのではないと思う。この方は、たぶん、ご自分に言い聞かせておられた。改訂の起案は作れる。実線は削れる。橋台の記載に改められる。院長の権限でできる。今日にでも書ける。
だから、線は書き直せる。その通りだった。その通りなのが、いちばんいけなかった。
「二十四でございます」
わたくしは、そう申し上げた。
「線ではございません。二十四でございます」
コンラート殿が、こちらを見た。
わたくしは、自分の声が思ったより低く出たのに気づいた。
「書き直せるのは、線でございます。線は紙の上にございますので、削れば消えます。消せば、消える前に何が書いてあったかも、たいてい残りません。
この帳面の中の二十四は、書き直せません。フェリクス様は、十一年、同じ二十四を書き写しておられます。増やすことも減らすこともできませんので」
「……分かっている」
「分かっておられません」
◇
言ってしまってから、わたくしは、卓に手をついた。言い過ぎだった。今度こそ、言い過ぎだった。
この方はご自分の起案を認められた。改訂を作ると仰った。名簿を見せてくれと仰った。ここまで来た人に向かって、分かっていない、と言う権利は、わたくしには無い。
わたくしは、報復をするために北にいるのではない。ずっと、そう決めていた。
図を出したのも、余白の一覧を送ったのも、誰かを終わらせるためではなかった。次の谷で人が止まらないようにするためだった。
それなのに、いま、この方を刺した。刺したのは、たぶん、名簿の空欄を見たからだ。
名前を入れるなと言った男がいる。三年後に、冬に、家で死んだ。その男の欄が、十四年、空いたまま写され続けている。
その空欄の前で「線は書き直せる」と言われて、わたくしは黙っていられなかった。
顔を上げられなかった。
◇
「いや」
コンラート殿が、そう仰った。
「そのとおりだ」
わたくしは、顔を上げた。その方は、卓の上の帳面に手を置いておられた。
「私は、三十年、線の話をしてきた。線は書き直せる。図は改訂できる。規定は改められる。全部、本当だ。本当だから、それで済むと思ってきた」
「……はい」
「済まないものがあることを、この帳面が、十四枚で書いてある」
その方は、帳面を、フェリクス様のほうへ押し戻された。
「起案の理由の欄は、決まった」
書記が、筆を持ち直した。コンラート殿は、口述された。
——北方地区ラーン川渡河地点の記載を改める。当該地点に橋梁は存在せず、十四年前の起案時点においても存在しなかった。実線をもって記載したのは、予算申請上の経路連続性を示すためであり、現地確認を経ていない。当該記載により、少なくとも二件の遭難が生じている。
書記の筆が、途中で一度、止まった。
止まったところで、コンラート殿は待たれた。急かされなかった。
——起案者、王立測図院長 コンラート・ヴァイル。
書き終えた紙を、その方は自分で読み返された。二度読んで、それから印を押された。
押したあとで、印肉の蓋を閉めるのに手間取っておられた。指がうまく動いていなかった。
書記が代わりに閉めた。
◇
その夜、コンラート殿は、館の広間の壁の図を、もう一度見ておられた。
九尺と六尺の板が四枚。領内の道が全部、そこに載っている。
わたくしは、少し離れて立っていた。
「アルストレム」
「はい」
「あなたの二十六の印を、正図の規定に入れる」
わたくしは、返事ができなかった。
「ただし、そのままではない。二十六のうち、王国のどこでも意味の変わらないものだけだ。数えたところ、九つだ」
「九つ」
「土が緩い。日の入りが早い。渡河不能。飲めない水。冬季通行不能。引き返し点。避難可能地。危険。距離の目安」
わたくしは、その九つを、頭の中で数えた。
合っていた。残りの十七は、この土地でしか通じないものだった。井戸の丸も、炭焼きの煙も。
「残りは」
「残りは、あなたの領で使いなさい。正図には入れない。——だが」
その方は、壁の図を指された。
「正図の欄外に、地方図の存在を注記する。この場所には、領の図がある、と。読む者が、そちらを見に行けるように」
◇
わたくしは、しばらく声が出なかった。やっと出たのは、こんな言葉だった。
「……なぜ、そこまで」
コンラート殿は、壁を見たまま仰った。
「私は、八年、外回りをやった。八年目の冬に、山で三日動けなくなったことがある」
「はい」
「そのとき、私が持っていた図には、引き返し点が書いていなかった」
その方は、そこで少し笑われた。笑い方が、この方には似合っていなかった。
「書いていない図を作る側に、その次の年に回ったのだ」
【余白より】名簿、十四枚。二十四の名前。最後の一つは空欄のまま写す。
八年の外回りで、山に三日動けなくなったことがある、と仰います。そのとき持っておられた図には、引き返し点が書いていなかったそうでございます。書いていない図を作る側に、その次の年に回られました。
次回、フェリクス様が毎年写しておられるものが、王都の卓に出ます。二十四人ぶんでございます。




