第26話 誰が、実線を引いたか
館へ戻ったのは、四月の終わりだった。
隊の十八人は、峠を越えて王都へ帰る。荷を整えるのに三日かかった。そのあいだ、館は人でいっぱいになった。
コンラート殿は、まだ残っておられた。
視察の予定は三日で、もう十日を超えている。書記が二度、王都へ便を出した。
その方は、館の書庫にこもっておられた。
書庫といっても、館の一階の奥の部屋である。棚が四つ。窓は東向きで小さい。冬は寒く夏は暗い。ここに領の古い書付が全部入っている。
整理はされていない。年ごとでも種類ごとでもなく、しまわれた順に積んである。わたくしは去年の冬に一度これを並べ直そうとして、三日で諦めた。
諦めたのは面倒だったからではない。並べ直すと、どこに何があるかを知っている人の頭の中と合わなくなるからだった。フェリクス様は、この乱雑な棚から一発で目当ての紙を出す。
うちの領の古い図を、片端から見ておられた。四十年前の墨のもの。三十年前のもの。焼け残った断片。
三日目の夕方、書庫の扉が開いていたので、中を覗いた。
コンラート殿は、卓の上に一枚を広げて、その前に座っておられた。
ラーン川の、古い一枚だった。橋の記号が、四角ひとつで描いてある。
「これは、いつのものだ」
「十三年前の写しでございます。裏に年が入っております」
「元の図は」
「王都の正図でございます。うちの領が、写しを取り寄せております」
コンラート殿は、その四角を指で押さえた。押さえて、動かさなかった。
◇
書庫を出たところで、ニナに捕まった。
「あの人、なにしてるの」
「古い図を、見ておられます」
「ずっと?」
「三日、ずっとでございます」
ニナは、扉の隙間から中を覗いて、それから顔をしかめた。
「あれ、王都でいちばん偉い人でしょ」
「はい」
「じゃあ、なんで自分で見てるの。偉い人って、人にやらせるんじゃないの」
わたくしは、答えに詰まった。
院にいた十年、そのとおりだったからだ。院長が自分で図を見る場面を、わたくしは一度も見たことがない。
「……いま、やらせる人がいらっしゃらないのだと思います」
「ふうん」
ニナは、しばらく考えてから、こう言った。
「じゃあ、湯を持っていってあげる。あそこ、寒いもん」
その子は、厨房のほうへ走っていった。
あとで聞いたら、コンラート殿は湯を受け取って、「ありがとう」と仰ったのだそうだ。ニナはそれを、村じゅうに言って回った。
◇
その晩、ライナー様が広間に、あの二十二枚を出された。夏に取り寄せた、審査控えの写しだった。
ラーン川、架橋計画にともなう改訂。起案の日付、十四年前の三月。
——ラーン川渡河地点に橋梁を実線にて記載。
起案者の欄に、名前がある。コンラート殿は、その紙を手に取られた。取って、しばらく見ておられた。それから、こう仰った。
「これは、私の字だ」
◇
否認されなかった。
その一点で、この方は、オズヴァルト・レーマー殿と同じだった。院で長くやってきた人は、書いたものについて嘘をつかない。書いたものは残るからだ。残るものについて嘘をつくと、あとで二重に困る。
「起案から決裁まで、四日でございました」
わたくしは、そう申し上げた。
「現地の確認をなさっておりません」
「していない」
「なぜでございますか」
「予算の締切が、四月の頭だった」
その方は、紙を卓に戻された。
「北方街道整備の申請だ。経路が川で切れていると、通らない。繋がっていることを示す必要があった」
「橋は、架かる予定だったのでございますか」
「予定だった。予算が下りれば架ける。だから、実線で描いた」
「破線ではなく」
「破線では、通らない」
◇
わたくしは、そこで一度、息を吸った。
「予算は、下りたのでございますか」
「下りた」
「橋は」
「架からなかった」
コンラート殿は、卓の向こうで、両手を組まれた。
「翌年、南方で洪水があった。予算が回された。北方街道の残りは、四年かけて他へ流れた」
「橋台は、積んでございます」
「積むところまでは進んだ。その年の夏に」
「では、なぜ、そのあとに図を直されなかったのですか」
その問いに、コンラート殿は、答えるのに少し時間を使われた。
「直す手続きがある。改訂の起案だ」
「はい」
「起案には、理由が要る。理由の欄に何と書く。——予算が流れて橋が架からなかったので、実線を破線に戻す、と書くか」
わたくしは、答えなかった。
「そう書けば、四年前の起案が虚偽だったと、私が自分で書くことになる」
わたくしは、その理屈をよく知っていた。
院の書式は、書いた者を守るようにできている。理由の欄があるのは説明のためではない。あとで問われたときに指し示すもののためだ。
だから、あとから理由を書けない改訂は、起案されない。起案されないものは、直らない。
直らないまま残った線を、十四年、誰も消せなかった。
消せなかったのは、誰か一人が悪かったからではない。仕組みがそうなっていた。
仕組みがそうなっているせいで人が死んだ、というのが、いちばん救いのない結論だと思う。
◇
ライナー様は、その間、一度も口を開かれなかった。
壁ぎわに立って、卓の上の紙を見ておられた。左手は、手袋をしていない。
わたくしは、次を伺った。
「十四年前の冬に、ノルトフェルトの隊が北へ出ました」
「聞いている」
「二十四人でございます」
「聞いている」
「その隊が持っていた図に、橋がございました」
コンラート殿は、こちらを見た。
「それは、この改訂の翌年だな」
「翌年でございます。冬でございます」
部屋の中で、誰も動かなかった。
「……知らなかった」
コンラート殿は、そう仰った。
「北方で隊が消えたことは、報告で読んだ。原因は冬季の遭難と書いてあった。図の話は、どこにも出ていない」
「出ませんでしょう」
わたくしは、そう申し上げた。
「戻ってこられた方は、一人でございます。その方は、王都へ報告に行っておりません。この領で、そのまま三年後に亡くなりました」
◇
コンラート殿は、長いあいだ、黙っておられた。やがて、書記を呼ばれた。書記が入ってきて、卓の端に紙を広げた。
「起案を作る」
「……はい」
「北方地区、ラーン川渡河地点の記載を改める。実線を削り、橋台の記載に改める。理由——」
そこで、その方は言葉を切った。書記が、筆を止めて待っていた。
わたくしは、卓の上の蝋布を見ていた。四角二つと、そのあいだの点三つ。この領で決めた印だ。院の規定には無い。
「……理由は、あとで書く」
コンラート殿は、そう仰った。立ち上がって、書庫のほうへ歩いていかれた。扉のところで、一度だけ止まって、振り返られた。
「アルストレム。ノルトフェルトの隊の名簿は、この館にあるか」
「ございます」
「見せてもらえるか」
その問い方に、命令の響きは無かった。
院長がこの領のものを見るのに、頼む必要はない。求めれば出る。それでも、その方は頼まれた。
頼むというのは、断られる余地を相手に渡すことだった。わたくしは、ライナー様のほうを見た。
名簿は、この領のものだ。わたくしが出していいものではない。
ライナー様は、壁ぎわから動かずに、こう仰った。
「フェリクスが持っている。毎年、書き写している。今年の分は、もう写し終わっているはずだ」
「……写す、というのは」
「増えも減りもせん。同じ二十四人だ。毎年、同じ名前を、同じ順で書き写す」
コンラート殿は、その説明を、最後まで聞いておられた。
「なぜ写す」
「忘れないためだ」
ライナー様は、それだけ仰った。
【余白より】十四年前の起案、理由の欄は一行。予算の締切、四月の頭。
毎年、同じ二十四人を、同じ順で書き写す。増えも減りもいたしません。なぜ写すのか、と問われて、忘れないためだ、とだけお答えになります。
次回、その二十四人を「線」と呼ぶ方の、動機が出ます。予算でございます。




