第25話 助けてくれ
峠を下りたところで、北から早馬が来た。
うちの領の馬ではなかった。乗っていたのは軍務省の伝令で、鞍が汗で白くなっていた。
馬から下りる前に、その男は叫んだ。
「ノルトフェルト辺境伯領へ。北方測量隊の救援要請」
◇
二度目の遠征が出ていることを、わたくしは知らなかった。
三月に出ていた。去年と同じ経路で、去年の失敗を繰り返さないために、隊の人数を減らし、荷馬を減らし、日程を延ばした。
率いていたのは、ジークベルト・エッシェンバッハ様だった。
去年の隊の後始末をした人が、翌年もう一度出るというのは、責任の取り方として、たぶん正しかった。この方は、そういうところがある。
隊は、谷を無事に抜けた。
東の斜面の下では野営しなかった。去年の場所を避けて、谷の入口まで戻ってから泊まった。日程が一日延びたが、崩れは起きなかった。
そこまでは、うまくいっていた。止まったのは、川だった。
◇
伝令の話を、館の広間で聞いた。
隊は十八人。ラーン川の渡河地点に到達したのが、四月の十八日。
橋は、無かった。
橋台のところで、二日待った。上流を探し、下流を探し、渡れる場所を見つけられなかった。
四月の川は、雪解けで水量が多い。冬より渡りにくい。
引き返そうとしたときには、食糧が足りなくなっていた。日程を延ばしたぶん、余裕を削っていたからだ。
「いま、どちらに」
「川の手前で野営しています。動けません」
「動けない、とは」
「隊長の命令です。ここから動くと、また迷う、と」
わたくしは、その言い方に、少し驚いた。迷う、という言葉を、あの方が使った。
◇
要請書は、去年と同じ用箋だった。
書式も同じ。必要な物資と人数が、箇条書きで並んでいる。
ただ、末尾が違った。去年は、こう書いてあった。
——なお、当隊の携行図は王立測図院の正図に基づくものであり、経路の選定に瑕疵はない。
今年は、その一行が無かった。代わりに、こうあった。
——ラーン川に橋なし。当方の図に誤りあり。渡河地点について、貴領の知見を請う。
その下に、署名がある。ジークベルト・エッシェンバッハ。筆跡は、いつもより乱れていた。
◇
わたくしは、その紙をしばらく見ていた。当方の図に誤りあり。
この一行を書くのに、あの方は、たぶん、ずいぶん時間がかかったのだと思う。
ここに至るまでに、いくつのことが要ったかを数えた。谷で十一人が死に、委員会が開かれ、写図生が二度尋ね、次席が処分を受け、その全部が終わったあとで、この人はもう一度北へ出た。
出て、川の前で止まって、紙にこう書いた。当方の図に誤りあり。わたくしは、机の抽斗から、去年の夏の図を出した。
ラーン川。橋台の記号。四角二つと、そのあいだの点三つ。
それから、二百歩上流の、川底の岩三つ。
「フェリクス様」
「はい」
「橇と、綱と、板を。それから、村の男の方を六人お願いできますか」
「あなた、行くんですか」
「渡れる場所を、こちらは知っております」
◇
出たのは、その日の午後だった。
わたくしと、ライナー様と、フェリクス様と、村の方が六人。トマスさんとローデさんも入っている。
コンラート殿は、館に残られた。出る前に、その方が広間で仰った。
「私も行く」
「峠を越えたばかりでいらっしゃいます」
「八年やったと言った」
ライナー様が、断られた。
「あんたが来ると、これは院と領の話になる。今日は、そういう日ではない」
コンラート殿は、少し黙ってから、うなずかれた。
◇
川へ着いたのは、翌日の昼だった。
橋台の向こう、対岸に、天幕が四つ見えた。旗が一本立っている。動く人影が、少ない。
こちら側の岸から、フェリクス様が声を張り上げた。返事があるまでに、少しかかった。わたくしは、二百歩上流へ歩いた。
岩は、三つとも出ていた。夏に見たときより、水に沈んでいる。それでも、頭は出ている。
いちばん大きな岩まで、岸から十一歩。そこから次の岩まで、十四歩。最後の岩から対岸まで、十七歩。
持ってきた板は、六尺のものが四枚。二枚を継げば十二尺。足りる。
綱を、いちばん大きな岩に渡すところから始めた。
石を綱の先に括って投げる。三度失敗して、四度目で岩の裂け目に噛んだ。噛んだかどうかは、引いてみれば分かる。
最初に渡るのはローデさんだった。腰に別の綱を結んで、流されても引き戻せるようにする。渡りきってから、板を引き上げてもらう。
板は水を吸うと重くなる。運ぶあいだ濡らさないよう、橇の上で油紙をかぶせてきた。この油紙は、ハーヴェル爺が器械を包んでいたものを借りた。
板を渡すときは、両端を綱で縛って、岩の上に固定する。固定しないと、人が乗った瞬間に滑る。
これを三つの岩でやる。日が傾いていたので、二つ目までを急いだ。急ぐと手順が飛ぶ。飛ばないように、わたくしが声を出して数えた。
一、綱を張る。二、板を渡す。三、両端を縛る。四、一人が渡って確かめる。
四つを、三回。
◇
橋というほどのものではなかった。
板を岩に渡して、綱を張って、一人ずつ手で伝って渡る。荷は先に投げ渡す。日暮れまでに十八人が渡り終わった。
最後に渡ってきたのが、ジークベルト様だった。岸に上がって、膝をついた。顔を上げるまでに、しばらくかかった。
わたくしは、少し離れたところに立っていた。近づくべきかどうか、分からなかった。
その方は、立ち上がって、こちらへ来られた。
外套は泥だらけで、頬がこけていた。半年前、広間で外套を脱がなかった人と、同じ人だった。
「リーゼロッテ」
「はい」
何か言われるのを、わたくしは待った。
その方は、口を開いて、閉じた。それから、もう一度開いた。
「……助かった」
それだけだった。わたくしは、頭を下げた。
謝罪はなかった。たぶん、この先も無い。それでいいと思った。この人が北へもう一度出たこと自体が、この人なりの、いちばん重い書き直しだった。
◇
その夜、こちら側の岸で火を焚いた。十八人と、九人。二十七人が、火のまわりに座った。誰も、地図の話をしなかった。
わたくしは、板の位置を帳面に書いた。岩の頭がどこまで出ていたか。綱を張った高さ。渡るのにかかった時間。
次にここへ来る人のために、書いておく。
火の向こうで、ジークベルト様が隊の者と何か話しておられた。声は聞こえない。
その方の膝の上に、折り畳んだ紙が置いてあった。写しの写しだった。線が太い。縁は、まっすぐに切り落としてある。
あの紙は、たぶん、まだしばらく捨てられない。役所の備品だからだ。
わたくしは、自分の帳面に目を戻した。
板の位置。岩の頭の高さ。綱を張った位置。渡るのにかかった時間、二刻と半。
【余白より】岩三つ。岸から十一歩、十四歩、十七歩。板は六尺を四枚。渡るのに二刻と半。
王都が、自分たちの図で帰れなくなった回でございます。それでも、こちら側は救助を出します。火のまわりに二十七人が座って、誰も地図の話をいたしませんでした。
次回、十四年前の実線を誰が引いたのかが分かります。筆の入り方に、癖がございます。
ブックマークと評価は、川に渡す綱の一本ぶんとして受け取っております。




