第24話 帰り道も、国のものですか
三日目、峠へ上がった。
コンラート殿と、書記と、ライナー様と、わたくし。ニナは連れていかない。フェリクス様が館に残った。
峠道は、四月でもまだ雪が残っている。北側の斜面だけが白い。日の当たらない場所から先に凍って、最後に解ける。
コンラート殿は、よく歩かれた。
六十を過ぎておられるはずだった。歩き方に無駄がない。膝を高く上げず、足の裏を滑らせる。ハーヴェル爺と同じ歩き方だった。
「外回りを、なさったことがおありですか」
わたくしは、伺った。
「八年やった」
それだけ仰った。
八年は長い。外回りは若いうちの数年で終わるのがふつうだった。八年やった人は、山で何度か死にかけている。
道の途中で、その方は二度立ち止まった。二度とも景色を見るためではなかった。足の裏で地面を確かめておられた。
柔らかいところと硬いところを踏み分けて歩く人は、雪の下に何があるかを足で読んでいる。これは頭で覚えるものではない。何年も歩いた体だけが覚える。
わたくしは、その歩き方を後ろから見ていた。
この方は、線を引かない院長ではあっても、線の引き方を知らない人ではなかった。
◇
吹き溜まりの跡は、まだ残っていた。
道が北へ曲がるところ。北の斜面から落ちた雪が、まだ半分残って、道の上に膨らんでいる。
わたくしは、そこで足を止めた。
「ここでございます」
「ここが」
「冬に、荷車が止まります。年によって止まる年と止まらない年がございますが、雪のあとに北風が吹くと、埋まります」
コンラート殿は、その膨らみを見ておられた。それから、屈んで、雪を握られた。握って、指のあいだから落として、また握った。
「締まっているな」
「はい。四月の雪でございますので」
「冬の雪は、これより軽い」
「はい」
「軽い雪は、風で動く」
その方は、立ち上がって、雪を払われた。
「あなたの図に、この場所は、どう書いてある」
「短い横棒を一本。それと、荷車はここまで、という印を」
◇
領庫から持ってきた峠の図を、その場で広げた。風があったので、四隅を石で押さえた。コンラート殿は、屈んで、それを見ておられた。
「二つ印がある」
「はい。急な坂と、この吹き溜まりでございます」
「急な坂のほうには、荷車が通れると書いてある」
「雪が固ければ通れます。ですから、ここまでは行っていい、と」
「戻れるからか」
「はい」
コンラート殿は、図の上の、その二つの印のあいだを指でなぞられた。
「行っていい、と書いた図を、私は見たことがない」
◇
風が強くなってきたので、茶屋の跡へ移った。
石の壁が腰の高さまで残っていて、その内側だけ風が来ない。去年の夏、わたくしが帳面に書いた場所だった。
壁の裏には道標が倒れたままになっている。彫られた二つの名のうち片方は削れて読めない。
コンラート殿は、それを見つけて、屈んで指でなぞられた。
「ヴァイセン」
「読めるのでございますか」
「彫りの底が残っている。上から光を当てれば読める」
わたくしはその名を帳面に書いた。ヴァイセン。峠の向こうの、いまは地図に無い集落の名だった。
「四十年前まで人が住んでいた。冬に村ごと出た」
「……院の図には」
「載せなかった。無くなる村を載せると、正図の改訂が増える」
書記が湯を沸かしているあいだ、コンラート殿は壁にもたれて座っておられた。
「アルストレム」
「はい」
「あなたは、この領の図を、王国の図にしたいのか」
わたくしは、少し考えた。
「したくはございません」
「ほう」
「王国の図に、この領の図を入れていただきたいのではございません。王国の図に、余白を作っていただきたいのです」
「同じことだ」
「違うと存じます」
わたくしは、蝋布を膝の上に置いた。
「印の形は、土地ごとに違ってよいと存じます。この村の三本の横棒は、隣の村では通じないかもしれません。通じなくてよいのです。大事なのは、印を打つ場所が、図の上に残っていることでございます」
「規定が二十六増える、という話ではないのか」
「はい。増やしていただかなくて構いません。落とさないでいただきたいだけでございます」
コンラート殿は、しばらく黙っておられた。
「落とさなければ、正図は汚くなる」
「はい」
「王国のどこでも同じに読めなくなる」
「はい」
「それでも、落とすなと言うのか」
「落とされた場所で、人が死にましたので」
◇
風が、壁の外を通っていった。
湯が沸いて、書記が三つの碗に注いだ。ライナー様は受け取らず、壁の外に立っておられた。中の話は聞こえていたと思う。
「あなたの図は、国のものだ」
コンラート殿は、そう仰った。
「北方測図の任は、院の命により発せられた。命により作成された図は、国の資産だ。辺境伯が雇い直したのは形式にすぎん。私が院長として認めなければ、それは通らない」
「はい」
「認めない、と言えば、この図は明日から誰のものでもなくなる」
わたくしは、碗を膝の横に置いた。置いてから、こう申し上げた。
「では、帰り道も、国のものですか」
◇
コンラート殿の手が、止まった。
「……何と」
「この図に書いてございますのは、行き方ではございません。帰り方でございます」
わたくしは、蝋布を広げた。
二十六の印。点と、横棒と、斜線と、四角と、人の形と腰の線。
「どこまで行ったら引き返さなければならないか。どこで日が落ちるか。どこに風の来ない場所があるか。この線は、行くための線ではございません。戻るための線でございます」
「同じ線だろう」
「同じ線でございます。ですが、行きは誰でも歩けます。帰りは、そうではございません」
わたくしは、峠の道の、二つ目の印を指した。
「行くだけなら、この先へも行けます。行った人は、たいてい行けます。行った先で暗くなって、風が出て、そのときに初めて、帰り道が要るのです」
風の音がした。
「王都の図は、行き方が書いてございます。よく書けております。三年、わたくしも書いておりました」
わたくしは、顔を上げた。
「帰り方は、誰も書いておりませんでした。ですから、余白に書きました。国のものだと仰るなら、それでも構いません。ただ、国は、その余白を落とします」
そこまで言って、わたくしは口を閉じた。言い過ぎたと思った。
院の頂に座る人へ向かって言う言葉ではなかった。三年前のわたくしなら、この半分も言わずに黙っていた。
コンラート殿は、碗を両手で持ったまま動かれなかった。湯気が上がって、風で横へ流れた。
やがてその方は、碗を石の上に置いた。置いてから、こちらではなく、壁の外に立っているライナー様のほうを見た。
「辺境伯。聞いていたな」
「聞いていた」
「この娘の言うことに、あんたは責を負えるか」
「負う」
即答だった。コンラート殿は、それきり何も仰らなかった。
【余白より】四月の雪は締まる。冬の雪は軽い。軽い雪は、風で動く。
余白の註記は、行くための線ではございません。帰るための線でございます。第一話から引っぱってまいりました意味が、ここで全部出ます。
次回、北から早馬が来ます。紙には、助けてくれ、と書いてございます。




