第23話 地図の前に並ぶ
コンラート・ヴァイル院長は、思っていたより小さな方だった。
背が低いのではない。体の使い方が小さい。馬車から降りるとき、手を貸されるのを断って、自分で降りた。降りてから、外套の裾を払って、館の建物を上から下まで一度だけ見た。
見たのは建物ではなく、北側の二重の壁と、そこに積んである薪だった。
「よく建ててある」
最初の言葉が、それだった。
「この土地の冬を知っている者が建てている」
わたくしは、その言葉に、うまく反応できなかった。同じことを、わたくしも去年の秋に思った。
◇
随員は少なかった。書記が一人と御者だけで護衛はいない。
護衛を連れてこない役人は二種類しかいない。よほど自分の立場を信じているか。よほど急いでいるか。
視察は三日の予定だという。初日に館、二日目に村、三日目に峠。
「まず、壁を見せていただこう」
広間へ通した。
九尺と六尺の板が四枚。継いで一枚。領内の道が全部、そこに載っている。
コンラート殿は、壁の前に立って、動かなかった。四半刻ほど、動かなかった。
その間に、わたくしは自分の心臓の音を二度、数えそうになった。癖が出た。
「これは、縮尺が書いていない」
「点で示してございます。点ひとつが、大人の百歩でございます」
「歩幅は人によって違う」
「違います。ですから、村の子に測らせて、平均を出しました。上りと下りで変わりますので、そのぶんも」
「歩測を、正規の測量に混ぜたのか」
「混ぜてはおりません。骨は器械で測ってございます。歩測は、読む人が自分で確かめられるようにするためのものです」
コンラート殿は、初めてこちらを向いた。
「読む人が、確かめる」
「はい」
「図を、確かめられては困る」
◇
その言い方に、悪意はなかった。この方は、事実を述べておられた。
「図というのは、確かめずに信じるものだ。確かめられるなら、図は要らない。自分で歩けばいい」
「はい」
「だから正図がある。院が定め、王が認め、王国のどこでも同じに読める。読む者は確かめない。確かめないから、遠くへ行ける」
コンラート殿は、壁の図を指した。
「これは、その仕組みの外にある」
「はい」
「外にあるものが増えると、正図の値打ちが落ちる。落ちれば、誰も信じなくなる。誰も信じない図で、人はどこへも行けない」
わたくしは、黙っていた。
この方の言うことは、筋が通っていた。通っていないのは、去年の谷で十一人が死んだという一点だけだった。
その一点を、この方は勘定に入れていないのではない。入れたうえで、なお仕組みのほうが大事だと考えておられる。
三十年、そう考えて役所を動かしてきた人の顔だった。
「あなたは、写図室にいたそうだな」
「三年、おりました」
「その前は」
「外回りでございます。七年」
「珍しいな。ふつうは逆だ」
外回りは、罰として回されるところだ。写図室から外へ出されるのが順で、外から中へ入れられるのは、腕を買われたときだけ。
「腕を買われたのだろう」
「……そう伺いました」
「では、なぜ北へ出された」
わたくしは、答えなかった。
コンラート殿は、答えを待たなかった。この方は、答えを知っていて聞いておられた。
◇
「この壁の図を、院で預かる」
二日目の午後、村の集会所で、コンラート殿はそう仰った。
集会所の壁にも、図がある。館のものより古い、字のないほうだ。
「板ごと、でございますか」
「板ごとだ。院で写しを取り、記号を検討する。使えるものは正図の規定に加える」
それは、悪い話ではなかった。
わたくしが三年半かけて増やした二十六の印が、王国の規定になる。院の図に、余白が生まれる。
落とされないようになる。
「そのあいだ、村は」
「写しを置いていく」
「写しには、余白の印は」
コンラート殿は、答えられなかった。
答えは、去年オズヴァルト殿が答えられなかったのと、同じところにあった。
◇
そのやりとりを、集会所には十四人が聞いていた。
立ち会いとして呼んだのは五人だった。あとの九人は、勝手に来た人だった。
最初に動いたのは、マルタさんだった。
産婆のその方は、壁の図の前へ歩いていって、そこに立った。
次に、トマスさんが立った。ヘルダさんが立った。ローデさんが立った。
順番に、壁の前が埋まった。
誰も何も言わなかった。腕を組む人もいない。ただ、そこに立っていた。
コンラート殿は、その様子をご覧になっていた。
「どきなさい」
書記が言った。誰も動かなかった。
◇
そのとき、ニナが歌い始めた。
北へ三つ、水がある。
東へ二つ、木がある。
西へ行くなら、日のあるうちに。
子どもの声だった。誰かが二番から合わせた。マルタさんだった。それからヘルダさんが、トマスさんが、順に。
節は単純で、同じところを繰り返す。四番まである。四番が終わると、また一番に戻る。
三度、繰り返された。コンラート殿は、最後まで聞いておられた。聞き終えてから、書記のほうへ手を挙げて、止めさせた。
「……何の歌かね」
「この村の、道の歌でございます」
わたくしは、そう申し上げた。
「北へ三つ、というのは、村の井戸から北へ三百歩、という意味でございます。歌の四番には、数の代わりに時刻が入っております。西の道は、日が落ちると危のうございますので」
わたくしは、壁の図の、西の道を指した。横棒が三本、引いてある。
「この印は、わたくしが考えたものではございません。この土地が、先に持っておりました。わたくしは、それを紙に写しただけでございます」
◇
コンラート殿は、しばらく壁を見ておられた。それから、集会所を出ていかれた。接収の話は、その日はそれきりになった。夕方、館へ戻る道で、フェリクス様が横に並ばれた。
「勝ちましたね」
「いいえ」
「え」
「あの方は、明日、峠へ行かれます」
わたくしは、そう申し上げた。
「峠の図は、館の壁にございません。持ち出せる大きさで、領庫に入っております」
フェリクス様の歩調が、少し遅くなった。
「……止めますか」
「止められません。あの方は、まだ何の権限も使っておられません」
「使ってないのに、取れるんですか」
「取れます。院長は、正図の規定を決められます。規定に合わない図を、王国の図として認めないこともできます」
わたくしは、峠の道を見た。
春の道は、雪の下から出てきたばかりで、まだ地面が柔らかい。四頭立ての馬車の轍が、深く残っていた。
「認められなくても、この領では使えます。ただ、王都の図には、峠の吹き溜まりが載りません」
「載らないと、どうなります」
「王都から来る人が、また同じ場所で止まります」
【余白より】歌、四番まで。北へ三つ、水がある。この土地が先に持っていた。
権限を使わずに取れる、というのが厄介でございます。規定を決められる側は、規定に合わない図を認めないだけで足ります。載らなければ、王都から来た方が、また同じ場所で止まります。
次回、この作品の題の元になった台詞が出ます。——帰り道も、国のものですか。




