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婚約破棄は承りました。では、王都へ戻る道はご自分でお探しください 〜追放された地図師令嬢は、辺境伯と「帰れる地図」を作る〜  作者: 白雪こよみ


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第22話 ニナの、名前

 冬のあいだは、測れない。だから、冬は描く季節になった。


 広間の焦げた枠を、十二月に外した。外すとき、ライナー様は立ち会われなかった。フェリクス様が「見ないほうがいいでしょう」と仰って、そのとおりにした。


 壁の煤は、灰と酢で三度洗って、薄くなった。消えはしない。消えなくていいと思った。


 板は、峠が閉まる前に届いた。九尺と六尺の板を四枚。継いで一枚にする。麻布は村から、十一枚。縫うのに、女の方が七人、四日かかった。


 張るのは、館の男の方たちがやった。水で湿らせて、四辺から引いて、乾かす。乾くと、太鼓の皮のように張る。


 張り終えた壁の前に、村の人が代わる代わる来ては、何も描いていない白い面を見て帰っていった。


 白い面を見に来る、というのが、わたくしには少し不思議だった。


 まだ何も無い。あるのは、これから何かが描かれるという事実だけだ。


 その事実を見に来る人が、三日で二十人を超えた。


    ◇


 ニナが自分の名前を書いたのは、一月だった。土の上ではなく、紙に。


 その日は雪で、集会所の裏は使えなかった。だから、館の卓を借りた。ハーヴェル爺が墨を磨って、わたくしが紙を切った。


 ニナは、筆を握るところから覚えなければならなかった。


 棒とは持ち方が違う。力を入れると穂先が潰れる。潰れると線が太くなって、二文字目が入らない。


 三度、書き損じた。四度目に、書けた。


「これ」


「はい」


「合ってる?」


「合っております」


 ニナは、その紙を持ち上げて、明るいほうへ向けた。それから、机に置いて、両手で押さえた。


「乾くまで、触っちゃだめだよね」


「はい」


 その子は、乾くまでずっと、そこに座っていた。


    ◇


 その紙を、ヘルダさんに見せに行った。


 厨房で、ヘルダさんは手を止めて、しばらく見ておられた。それから、前掛けで手を拭いて、両手で受け取られた。


「あんた、これ」


「かいた」


「かいたのかい」


「かいた」


 ヘルダさんは、その紙を、竈の上の棚に立てかけた。煙の当たる場所だった。


 わたくしは、そこは煤が付きますと申し上げようとして、やめた。


 あとで、フェリクス様が「あれ、いちばん人が見る場所です」と教えてくださった。


    ◇


 二月に、館の壁の図を描き始めた。


 大きな図は、小さな図を引き伸ばして作るのではない。作り直す。


 小さな図で線が一本に見えていたものが、大きくすると二本になる。道が二本並んでいるところは、小さな図では一本にまとめてある。まとめたものを、また分ける。分けるには、どちらが太いかを覚えていなければならない。


 覚えていないところは、帳面へ戻る。帳面に無ければ、歩き直す。


 冬に歩き直せる場所は限られている。だから、雪で行けないところは、いったん薄い墨で引いておいて、春に確かめてから濃くする。


 濃さの違う線が並ぶ図は、見た目が悪い。悪いが、どこが確かでどこが確かでないかが、ひと目で分かる。


 これは、院では許されない描き方だった。正図は、全部が同じ濃さでなければならない。


 全部で、四十二日かかった。


 村が七つ。峠が二つ。坑が一つ。谷が四つ。川が一本と、その対岸。道が、大きいものだけで十九本。


 距離は点で打った。点ひとつが大人の百歩。数えると、館から峠のいちばん急なところまで、点が三十八個並ぶ。


 文字は、村の名前だけ入れた。ニナが読めるようになったからだ。


 入れる前に、伺った。


「村の名前を、字で書いてもよろしいでしょうか」


「なんで、あたしに聞くの」


「読めない方が、いらっしゃるかもしれませんので」


 ニナは、少し考えて、こう言った。


「書けばいいよ。書いて、その下に絵も描けば」


 それで、村の名前の下に、その村の形を小さく描いた。字を読める人は字を読み、読めない人は形を見る。


 どちらも同じ場所を指している。


 この描き方には名前がない。院の手引にも載っていない。載っていないので誰にも咎められない。


 村の名前を書くのに四日かかった。七つの村の形を描くのにさらに三日かかった。形は上から見た輪郭だけにした。家の一軒ずつまで描くときりがない。


 輪郭でも村は分かる。人はふだん自分の村を上から見ないのに、なぜか分かる。マルタさんが「うちの村はここだ」と一目で言い当てた。


    ◇


 三月の初め、描き終えた日の夜に、広間で人が集まった。


 村から十人ほど。館の者が全員。ハーヴェル爺と、マルタさんと、トマスさんの一家。


 酒が出た。わたくしは飲めないので、水をいただいた。ライナー様は、壁の前に長く立っておられた。


 その方の左手は、この冬から、手袋をしていない。いつからそうなったのか、はっきりしない。ある日、食卓で気づいた。誰も何も言わなかった。


「これで、全部か」


「対岸が、粗うございます。渡れませんので、こちらから見て測りました」


「いつか渡るか」


「橋が架かりましたら」


 ライナー様は、こちらを見た。


「架けるとしたら、どこがいい」


 わたくしは、壁の図の、川のところへ行った。


 橋台の記号のところではなく、その二百歩ばかり上流を指した。


「ここでございます。川幅は広うございますが、川底に岩が三つ並んでおります。中州のようになりますので、桁を三つに分けられます」


「調べたのか」


「夏に、こちら側から見ました。……渡っておりませんので、確かとは申せません」


「では、渡って確かめる日が要るな」


 その方は、そう仰った。わたくしは、はい、と申し上げた。


 それだけの会話だった。それだけの会話が、その晩、なかなか頭から出ていかなかった。


 橋の話をしたのは、これが初めてだった。


 この領で橋というのは、長いあいだ、口に出さない言葉だった。焦げた枠と同じで、そこにあるのに、誰も指さない。


 その言葉を、あの方が先に出した。


 わたくしは、寝台に入ってから、川底の岩三つの位置を、頭の中でもう一度並べ直した。上流のほうから、大きい、小さい、大きい。夏に見たときの水の当たり方まで、覚えていた。


 覚えていたのは、たぶん、いつか誰かに聞かれると思っていたからだ。


    ◇


 春の便が入るようになったのは、四月の半ばだった。峠が開くと、荷が動く。荷が動くと、書状も来る。


 その日、わたくしは丘で、冬に狂った杭を三本、打ち直していた。


 ローデさんが、村のほうから走ってきた。


「街道に、馬車が来てる」


「どちらの」


「知らねえ。四頭立てだ。うちの領で四頭立ては、見たことねえ」


 わたくしは、金槌を置いた。


 打ち直しかけの杭が一本、半分だけ土に入っていた。抜くと穴が残る。残った穴は雨で崩れる。だから、打ってから行くことにした。


 三度打った。三度目で土が飲んだ。


 四頭立ての馬車が越えられるように、峠の道幅は測ってある。測ったのは、去年の秋だった。

【余白より】九尺と六尺の板、四枚。麻布十一枚、縫い手七人、四日。名前は二文字。


五話に一度は、何も起こらない回を置いております。杭を打ち直して、名前を書く。それだけの回でございます。打ちかけの杭を抜きますと穴が残りますので、打ってから行きます。


次回、四頭立ての馬車から降りた方が、壁の図の前に立たれます。

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