第21話 余白
照会状が来たのは、十月の終わりだった。
北方遠征調査委員会。北方十二里の測図に関し、当該測図を担当した者の陳述を求める。書面にて可。
書面にて可、というのは、来なくてよいという意味だった。来られては困る、という意味でもあったと思う。
わたくしは、その紙を三日、机の上に置いておいた。
◇
書こうと思えば、いくらでも書けた。
三年かけて測ったこと。余白に何を打ったか。清書のときに縁が落とされること。落としたのが誰の判断か。落とされた印の場所に、いま何が起きているか。
全部、事実だった。事実を並べれば、たぶん、人がひとり終わる。
わたくしは、そのことを三日考えて、それから、書かなかった。
書かなかった理由を、うまく言葉にできない。
オズヴァルト・レーマー殿を庇う気持ちは無い。あの方は、わたくしの十年ぶんの名前を、自分の名前に置き換えた。それを許した覚えもない。
ただ、あの方を終わらせるために書いた紙は、たぶん、次の谷では役に立たない。
役に立つ紙を書きたかった。
三日目の晩、フェリクス様に相談した。相談というより、聞いてもらった。
「書けば、あの人は終わりますよ」
「はい」
「終わらせないんですか」
「終わらせても、縁は落とされ続けます」
フェリクス様は、しばらく黙っておられた。
「……それ、ずいぶん冷たい言い方ですよ」
「はい」
「あなた、自分のことを、あんまり数に入れませんね」
そう言われて、返す言葉が出てこなかった。
数に入れていないつもりはない。ただ、入れると手が止まる。十年、そうやって手を動かしてきた。
◇
出したのは、二つだった。
一つは、「余白の読み方」。二十六の印と、その意味を並べた一枚。
もう一つは、帳面の写しだった。三年前の北方測図のとき、どの地点に、どの印を、なぜ打ったかを書いた記録。
その中に、あの谷の行がある。
——ヴェルデ峠より北二十里、ラーン川へ下る手前の谷。東斜面、土質脆。八月に登り、土を握る。粉状。斜面に流水の跡六条。樹木なし。短横棒を一。
樹木なし、と書いた三年前の自分に、わたくしは感謝した。
これは、意見ではない。見たものだ。添え状には、一行だけ書いた。
——これらの印は、清書の際に縁とともに除かれるため、写しには残りません。
誰が除いたとは、書かなかった。
書かなくても、委員会は調べる。調べるのが委員会の仕事だった。
◇
王都では、その二枚が、十一月の第三回委員会で読み上げられた。
読み上げたのは書記だった。二十六の印を、一つずつ。点二つ。夏に枯れる。短い横棒。土が緩い。細い斜線。日の入りが早い。読み上げに、四半刻かかった。部屋の中の誰も、それを止めなかった。
二十六まで読み終えたあと、委員のひとりが手を挙げた。軍務省から出ている監察官だった。
「確認したい。この短い横棒は、崩れの起きた斜面に打たれていたのか」
「帳面の記録では、そうなります」
「では、なぜ隊の携行図に無い」
「清書の際に、縁を落としますので」
「誰が落とした」
その問いは、その日、四度目だった。これまでの三度は、「写図室の判断」で通っていた。
四度目に、写図室から呼ばれていた若い写図生が、立ち上がった。
入って二年目の少年だった。
「レーマー様の指示です」
◇
少年は、そのあと、こう続けたのだそうだ。
わたくしが後で聞いた話なので、言葉のとおりではないかもしれない。
「私は、縁の印は何かと伺いました。ごみだ、と言われました。それで落としました。落としたのは私の手です。ですが、判断は私ではありません」
二度尋ねる者は、写図室から外回りへ回される。
その少年は、二度尋ねていた。二度尋ねて、答えをもらえないまま、言われたとおりに切った。
その一年半あとに、その切り落としの向こう側で、十一人が死んだ。
◇
オズヴァルト・レーマー殿は、その場で否認されなかった。
指示したのは自分である。理由は、規定にない記号は正図に載せられないためである。規定の運用は自分の裁量の範囲であり、越権はしていない。
そう述べられた。それは、たぶん、全部本当だった。委員会が問うたのは、その次だった。
——では、当該記号の意味を、あなたは知っていたか。
オズヴァルト殿は、しばらく答えられなかった。
知らなかった、と答えれば、意味を確かめずに落としたことになる。知っていた、と答えれば、意味を知りながら落としたことになる。
どちらでも、同じところへ着く。その方は、こう答えられた。
「知る必要があるとは、考えておりませんでした」
◇
処分が出たのは、十二月の初めだった。
次席の任を解く。写図室付きに戻す。北方十二里を含む、この十年に署名した図の全件について、記載内容の再点検を命ずる。
三百枚を超える。ひとりで。
免職ではなかった。免職にすれば、点検する者がいなくなるからだ。
処分の文には、こう書いてあったという。
——署名は、当該図の内容につき責を負うことの表示である。
わたくしは、その一行を、館の卓の上で読んだ。
院で十年、誰も口に出さなかったことだった。署名は手柄の印で、席次のある者が入れるもので、そういうものだと決まっていた。
決まっていたものが、紙に書かれて、意味を持った。
◇
その日の夕方、集会所の壁の図の前に立った。右下に、枠がある。中に、わたくしの名前が入っている。
この図に間違いがあれば、村の人はわたくしのところへ来る。来られる。名前が書いてあるから。
トマスさんが通りかかって、「なんだ、自分の名前見てんのか」と笑った。
わたくしは、そうです、と申し上げた。わたくしは、線を引くだけの女でございます。
三年前に言われたとおりだった。あのとき、答えの形が渡せなくて黙った言葉を、いまは黙らずに言える。
線を引くだけの女が、線の脇に何を書き添えるかで、人は帰ってきたり、帰ってこなかったりする。
トマスさんは、笑ったまま、こう続けた。
「うちのが言ってたぞ。あんたの名前、長いから覚えられねえって」
「……申し訳ございません」
「いいんだ。あそこに書いてあるから」
その人は、壁の枠を親指で指した。
「覚えなくていい。見に来りゃいい」
◇
王都から、もう一通、届いていた。
委員会の名ではなかった。院長個人の名で出された、短い書状だった。
——北方測図の実地を検分するため、来春、辺境へ赴く。
署名は、コンラート・ヴァイル。
筆の入り方に、癖があった。最初の一画を、上から強く入れて、途中で力を抜く。
図面控えの起案欄で見たのと、同じ字だった。
【余白より】院へ出したのは二枚。誰が悪いとは、一行も書かず。
出したのは、原図の余白の註記だけでございます。書かないほうが、書くより強いことがございます。この回で、この作品の芯が全部出ます。
第三章「署名」は、ここまで。雪が解けたら院長が辺境へまいりますが、その前に、次回はニナが自分の名前を書きます。
ブックマークと評価は、図面控えの写し賃(私費)に充てさせていただきます。




