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婚約破棄は承りました。では、王都へ戻る道はご自分でお探しください 〜追放された地図師令嬢は、辺境伯と「帰れる地図」を作る〜  作者: 白雪こよみ


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第20話 提出命令

 ライナー様が王都へ発たれてから、館は静かになった。


 いや、静かではなかった。人の数は変わらない。厨房は同じ時刻に湯を沸かし、厩では馬が鳴いた。ただ、判断を下せる人がいなくなると、館の中の音の意味が変わる。


 わたくしは、測量を続けた。


 九月の初めに、北の谷筋の三本目を仕上げた。これで、領内の主な道は全部、一枚に繋がる目処が立った。


 繋げるには、大きな板が要る。集会所の壁の図より、さらに大きなもの。


 フェリクス様に相談したら、館の広間の壁が空いていると言われた。焦げた枠が三つ掛かっていた、あの壁だ。


 枠は、まだそこにある。わたくしは、その壁の寸法を測った。


 横が九尺、縦が六尺。焦げた枠を外せば、そのまま板が張れる。板は、峠向こうの製材から取り寄せることになる。冬になる前に運ばないと、来年の春まで届かない。


 注文の書付を作って、フェリクス様に渡した。


「これ、いつ貼るんです」


「領内の道が全部繋がってからでございます」


「まだかかりますか」


「あと、ラーン川の対岸が残っております」


 対岸は、渡れない。渡れないので、こちら側から見て測るしかない。見て測るのは、歩いて測るより粗くなる。


 粗くなると分かっていて、それでも描く。描かないと、対岸が「無い場所」になってしまう。


    ◇


 王都からの便は、月に一度から、二度になった。


 夏のあいだに街道の一部が直って、峠越えが一日短くなったのだという。皮肉なことに、その工事の予算は、北方街道整備の残りから出ている。


 便が増えると、書状も増えた。九月の便で、院から一通。


 北方測図の任にある者は、現地作成の図の原本を、十月末までに院へ送付すること。既に二度、命じている。三度目である。


 三度目である、という一行が、律儀に書き添えてあった。わたくしは、その紙を卓に置いた。置いてから、しばらく手をつけなかった。


 院の書式で書かれた文は、読むと体が反応する。十年、この書式の下で働いた。「三度目である」と書かれた紙を前にして、背筋が伸びる。伸びてから、伸ばす相手がもういないことに気づく。


 置いてから、返事を書いた。


 図の原本は、ノルトフェルト辺境伯領の資産として領庫に保管しております。領の測図師として作成したものであり、院の任において作成したものではございません。


 この文面を作るのに、フェリクス様と半日かけた。


「けんか腰にならないように」


「はい」


「かといって、譲ってもいけません」


「はい」


「……あなた、こういうの、書き慣れてますね」


「院の書式でございますので」


    ◇


 同じ便で、もう一通あった。差出は、写図室。三年働いた娘の字だった。


 この夏、院内が慌ただしいという。北方遠征の調査委員会が始まって、十一人が死んだ件の聞き取りが続いている。写図室からも二人、呼ばれた。


 呼ばれたのは、清書を担当した者だという。


 ——縁を落としたのは誰か、と聞かれました。


 その一行を、わたくしは長いあいだ見ていた。


 ——写図室の判断です、と答えました。それが本当だからです。でも、そう答えたあとで、レーマー様の顔色が変わったのを見ました。


 手紙は、そこで一度改行してあった。


 ——リーゼ。あなたが余白に何を書いていたのか、わたしは知らないままでした。


    ◇


 わたくしは、その晩、返事を書かなかった。


 書けなかったのではない。書く言葉が多すぎて、選べなかった。


 代わりに、机の上に紙を広げて、余白の印の一覧を作った。


 点二つ。夏に枯れる。短い横棒。土が緩い。細い斜線。日の入りが早い。四角二つと点三つ。橋台あり、桁なし、渡れない。人の形と腰の線。この高さまでなら渡れる。波と煙と丸と三角。水、炭焼き、井戸、屋根。


 全部で二十六。三年と半年のあいだに、少しずつ増えた。一枚にまとめて、上に題を書いた。


 ——余白の読み方


 書いてから、この一枚が、いままで一度も外へ出したことのないものだと気づいた。


 院にいたころは、誰にも聞かれなかった。ここでは、聞かれる前に村の人が覚えてしまった。


 この紙を、写図室のあの娘に送ろうと思った。


 送ってどうなるものでもない。写図室に、余白を残す権限は無い。落とせと言われれば落とす。


 それでも、意味を知っている人が一人増えるのは、たぶん、無駄ではない。


 同じ紙を、もう一枚写した。二枚目は、館の書庫に納めた。


 三枚目を、ハーヴェル爺に渡した。


 爺は、二十六の印を上から順に読んで、いちばん下まで行ってから、こう仰った。


「これは、辞書だな」


「……はい」


「言葉には辞書がある。図には無い。無いから、落とされる」


「規定がございます」


「規定は、載せてよいものの一覧だ。辞書ではない」


 爺は、その一枚を丁寧にたたまれた。


「辞書は、意味が書いてある。規定には、意味が書いていない」


    ◇


 十月の初めに、ライナー様が戻られた。一か月以上、王都におられた。


 馬から下りたその方は、痩せておられた。ずっと屋内にいた人の顔をしていた。


「どうなりましたか」


「委員会に出た」


「……出られたのですか」


「遺族として出た。十四年前の隊の遺族だ。北方の件について申し述べたいことがある、と書いて出したら、通った」


 わたくしは、卓の椅子を引いた。ライナー様は、座られなかった。


「何を仰いましたか」


「三つだ」


 その方は、指を折られた。


「一つ。うちの領には、ラーン川に橋がない。十四年前から無い。二つ。王都の図には橋がある。三つ。うちの隊も、今年の隊も、その橋を目指して川へ降りた」


「……それだけでございますか」


「それだけだ。恨みも、誰が悪いも言わん。うちの領には橋が無い、とだけ言った」


 ライナー様は、そこで初めて椅子に手を掛けられた。


「あとは、向こうが調べる。調べざるを得なくなる」


    ◇


 王都では、その翌週、書庫の綴りが動いた。


 委員会が、十四年前の北方地区の改訂について、原本の提出を求めた。地下書庫の手前の棚、上から二段目、四冊目。


 書庫番のヨナス・ケラーが、それを出した。


 出したとき、綴りの中の一枚に、閲覧の記録が残っているのを、彼は黙って見ていた。二か月前に写しが取られている。写し賃は私費で払われている。


 彼はその欄を、書き換えなかった。委員会に提出された綴りには、起案の欄がある。起案者、コンラート・ヴァイル。当時、測図院 次席。


 決裁の欄には、当時の院長の印。その院長は、九年前に亡くなっている。


 検めの欄には、印が押されていなかった。


 当時、その欄を担当していたのは、外回りから写図室へ戻ったばかりの若い職員だった。押さないまま、四日で決裁が下りている。


 その職員の名を、委員会は控えた。オズヴァルト・レーマー。

【余白より】余白の読み方、二十六。これは辞書である、と教わった。


起案、決裁、検め。三つの欄のうち、押されていない欄が一つございました。四日で決裁が下りております。この作品のざまぁは、だいたい欄の話でございます。


次回、第三章の終わり。院へ出しますのは、原図の余白の註記だけでございます。

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