第30話 帰れる地図
対岸を測ったのは、翌年の六月だった。
水が引くのを待って、去年と同じ場所に板を渡した。今度は、渡るためではなく、向こうで測るために渡った。
三日かかった。
対岸には、道が一本あった。十四年前の隊が、北へ向かったという道だった。いまは草に埋もれている。
その道を、七百歩ぶん歩いて、そこで引き返した。
引き返した場所に、杭を打った。黄色い頭の杭を、道の右側に。
この先は、まだ測っていない。測っていない場所へ人を行かせないための杭だった。
対岸の測量は、こちら側より手間がかかった。
器械を渡すのに、板の上を二人がかりで運んだ。落とせば終わりだ。この領に、代わりの器械は無い。ハーヴェル爺のものが一台あるきりで、三十年前に作られなくなった型だった。
運ぶあいだ、爺は岸に座って見ておられた。渡らなかった。膝が悪い。
渡り終えてから、こちら側を振り返ったら、爺が手を挙げていた。
道が草に埋もれているところは、鎌で刈りながら進んだ。刈ると道の形が出る。出た形を測る。測ってから、また草に戻る。来年にはまた埋もれる。
埋もれても、図には残る。それが図の役目だった。
◇
壁の図に対岸が入ったのは、七月の終わりだった。九尺と六尺の板が四枚。継いで一枚。
村が七つ。峠が二つ。坑が一つ。谷が四つ。川が一本と、その両岸。道が、大きいものだけで二十一本。
距離は点で打ってある。点ひとつが大人の百歩。
余白には、印がある。二十六。そのうち九つは、いまや王国の規定にある。
右下に枠がある。二重の細い線。あいだは、指の爪の幅。その中に、名前が入っている。
二年前に書いたときは、字の収まりが悪かった。名前が長くて、最後のほうが小さくなった。
板を張り替えたときに、書き直した。今度は最初に文字の数を数えて、その幅に枠のほうを合わせた。
測ってから書けばいい、というだけのことに、二年かかった。
◇
図が一枚になった日、村から人が来た。
誰が呼んだわけでもない。壁が仕上がったという話が、二日で領じゅうに回ったのだと思う。
三日のあいだに、六十人ほどが広間を通っていった。
トマスさんは、自分の家を指で押さえて、それから川のところへ指を移した。
「橋、まだ無えのか」
「まだございません」
「いつになる」
「申請が通れば、二年でございます」
「二年か」
その人は、しばらく壁を見ていた。
「じゃあ、二年後に、またここへ来る」
◇
マルタさんは、川沿いの道の点を数えていた。
「九つだ」
「はい」
「去年と同じだね」
「同じでございます」
その方は、指を離して、こちらを向かれた。
「変わらないってのは、いいことだよ」
「はい」
「あたしはもう、走れないからね。走れないぶん、間違えたくないんだ」
◇
ハーヴェル爺は、壁の下のほうを長く見ておられた。署名の枠のところだった。
「四十年前にな」
爺は、そう仰った。
「わしが写図室にいたころ、原図の右下は空欄だった。誰の名前も入っておらん。院ができる前だったからな」
「……はい」
「名前が入るようになって、席次のある者が入れるようになって、それから、測った者の名前が消えた」
爺は、少し笑われた。
「一周したな」
◇
ニナは、水場を全部書けるようになっていた。三十一のうち、二十九まで。残りの二つは、名前が長い。
その子は、壁の図の水場の記号の脇に、字を書き足したいと言った。
書き足させた。
背が届かないところは、椅子に乗った。二つだけ、まだ書けない水場には、記号だけを残した。
「あとで書く」
その子は、そう言った。
わたくしは、書けるようになるまで記号は消しません、と申し上げた。
◇
最後に来たのは、ライナー様だった。村の人がみな帰ったあとの、夕方だった。その方は、壁の前に立って、端から端まで見ておられた。左手は、手袋をしていない。
「これで、全部か」
「領内は、全部でございます」
「二年前は、何も無かった」
「はい」
「焦げた枠が三つ、掛かっていた」
わたくしは、壁の煤の跡を見た。図の裏に隠れて、いまは見えない。
「あれは、外しました」
「捨てたか」
「いいえ。書庫に入れてございます」
ライナー様は、こちらを見た。
「なぜ残した」
「あの枠は、この領の記録でございますので」
◇
しばらく、二人とも黙っていた。
窓の外で、犬が鳴いた。この時刻に外を歩くのは、遅くなった木こりか、産婆か、どちらかだ。
どちらであっても、いまは杭がある。
「リーゼロッテ」
「はい」
「二年、よく働いた」
「……はい」
「来年も、いてくれるか」
わたくしは、返事をするのに、少し時間がかかった。
時間がかかったのは、言葉を探していたからではない。この方が「いてくれるか」と仰るのに、どれだけのことが要ったのかを、わたくしは知っていたからだ。
この方は、二年前、地図は信じないと仰った。
「おります」
わたくしは、そう申し上げた。
「橋の印を書き換えるのは、わたくしの仕事だと、伺っておりますので」
ライナー様は、うなずかれた。
それから、壁の図のほうへ手を伸ばして、川のところを指された。
指は、四角二つと、そのあいだの点三つの上で止まった。止まったまま、少しのあいだ動かなかった。わたくしは、その手を見ていた。
やがて、その方は手を下ろされた。下ろす途中で、わたくしの手の甲に、指が触れた。
触れて、そのままだった。どちらも、動かさなかった。
◇
その晩、書庫を片づけた。焦げた枠を三つ、奥の棚へ移すためだった。
棚を空けるのに、古い書付を出した。四十年前のもの。三十年前のもの。数えていくと、いちばん下の段に、筒がひとつ残っていた。
革の筒だった。留め金が錆びている。開けると、中に一枚、入っていた。羊皮紙。継ぎ目が二つ。ずいぶん古い。広げてみて、わたくしは手を止めた。
◇
ラーン川が、描いてある。その北。国境が、描いてある。そして、国境の向こう側が、描いてあった。谷が三つ。峠が二つ。道が四本。村が、名前つきで六つ。測ってある。
目測ではない。三角で繋いだ図だった。線の引き方に癖があって、その癖に、わたくしは見覚えがなかった。院の誰の手でもない。
右下に、枠がある。二重の細い線。あいだは、指の爪の幅。中は、空だった。
◇
わたくしは、その一枚を、卓の上に広げたまま、長いあいだ座っていた。
誰が測ったのか、書いていない。いつ測ったのかも、書いていない。
ただ、余白に、小さな印が並んでいた。
点が二つ。短い横棒。細い斜線。
わたくしが打っていたのと、同じ印だった。
【余白より】領内の道、二十一本。村七つ、峠二つ、坑一つ、谷四つ、川一本と、その両岸。
これで第一部、完結でございます。
二年前に「線を引くだけだ」と言われた娘が、上の一行ぶんの土地を、自分の名前で描き上げました。最後までお付き合いくださって、ありがとうございました。
父の書架にあった、国境の向こうまで描かれた一枚。右下の枠は二重の細線で、中は空でございました。余白に並んでいた印は、この人が打っていたものと同じでございます。あの一枚の主が誰なのかは、いまのところ誰にも分かりません。いつか、続きを書くことがあるかもしれません。
ブックマークと評価は、対岸を測りにまいる一年ぶんの紙代に充てさせていただきます。




