第17話 院長は、線を引かない
王立測図院の院長室には、地図が一枚も掛かっていない。
壁にあるのは、王国の行政区分の表と、予算の年次表だった。測図院は、図を作る役所である前に、予算で動く役所である。コンラート・ヴァイルは、そのことを三十年かけて理解した。
院の建物は、三十年前に建て替えられている。それ以前は、王城の裏手の一角を借りていた。
建て替えの予算を取ったのが、当時まだ若手だったコンラート・ヴァイルだった。取り方を、彼はそのときに覚えた。
予算は、必要だから出るのではない。出す理由が紙の上に書けるから出る。書ける形にするのが、役所仕事の中身だった。
その日、院長室に呼ばれたのは、次席のオズヴァルト・レーマーだった。
「北方の報告を読んだ」
「はい」
「辺境伯が、院の測図師を召し抱えたそうだな」
「兼職の形を取っております」
コンラートは、卓の上の報告書を指で押さえた。押さえたが、読み返しはしなかった。読み返す必要のない書き方をさせている。
「図はいくつある」
「清書が五枚。下図が十四。ほかに、村の集会所の壁に一枚」
「壁」
「板に布を張ったもので、大人の背丈ほどございます」
コンラートは、それについては何も言わなかった。
「その五枚に、署名は」
「入っております。リーゼロッテ・フォン・アルストレム。辺境伯領測図師、と」
院長室の窓は、西を向いている。午後の光が入る。書き物には向かない。この部屋の主は、三十年、ここで書き物をしていない。
「レーマー」
「はい」
「お前の名前は、いくつの図に入っている」
オズヴァルトは、答えられなかった。数えたことがなかった。
「三百は超えているだろう」コンラートは言った。「そのうち、お前が現地へ行ったのは何枚だ」
「……四枚でございます」
「私は一枚もない」
◇
コンラートは立ち上がって、窓の前へ行った。
「署名というのはな、レーマー。手柄の印だと思っている者が多い。違う。あれは、責任の所在を一点に集める仕組みだ」
「はい」
「図に間違いがあったとき、誰に聞けばいいかを、あらかじめ決めておく。それだけのものだ。だから席次のある者が入れる。席次のある者は、責任の取り方を知っているからだ」
オズヴァルトは、うなずいた。
この理屈は、十五年前に、この人から教わったものだった。当時、この人はまだ次席で、部屋も違った。
「北方の谷の件は、どうなる」
「調査委員会が、来月から。長は、閣下でいらっしゃいます」
「そうだったな」
コンラートは、窓の外を見ていた。
「あの隊は、なぜ谷で野営した」
「図に、危険の記載がなかったためです」
「記載がなかったのは、なぜだ」
オズヴァルトは、そこで一拍置いた。置いてから、いつもの答えを出した。
「原図に、院の定めにない記号が書き込まれておりました。清書の際、規定どおり除いております」
「除いたのは誰だ」
「写図室でございます」
「誰だ」
「……写図室の判断でございます」
コンラートは、振り返らなかった。
「そうか」
それだけだった。
◇
部屋を出るとき、オズヴァルトは扉のところで呼び止められた。
「レーマー。北方十二里の原図は、書庫にあるな」
「ございます」
「委員会が始まる前に、私が見ておく。出しておけ」
「かしこまりました」
扉が閉まってから、オズヴァルトは廊下でしばらく立っていた。
原図を院長が見る。それ自体は、おかしなことではない。委員会の長が資料を検めるのは当然だった。
ただ、原図の縁は、もう無い。
落としたのは、写図室の判断だった。判断だと、彼はさっき言った。
その判断を出したのが誰かを、廊下の窓に映った自分の顔が知っていた。
書庫は、地下にある。
湿気を避けるために床を石で二重にして、そのあいだに炭を敷いてある。原図は縦に立てて、筒に入れて並べる。番号順ではなく、地域順に。
北方十二里の筒は、いちばん奥の棚の、上から三段目にあった。
オズヴァルトは、それを自分で出した。書庫番に頼めば済むことだった。頼まなかった。
筒から抜いて、卓の上で広げる。
三枚継ぎの羊皮紙。真ん中の線は、いつ見ても素直だった。
縁は、まっすぐに落ちている。裁ち板の跡が、わずかに斜めに入っていた。急いで切った跡だ。
右下の枠には、彼の名前がある。
オズヴァルトは、しばらくその字を見ていた。それから巻き直して、筒へ戻した。
巻き方は、いつもどおりだった。指三本ぶんの隙間を残して、麻紐を二重に。端は、引けばほどける結び方で。
◇
同じころ、辺境では、ラーン川へ下る道を測っていた。
六月に入って、水が引きはじめている。あと二週間もすれば、岸まで近づける。
川へ下る道は、風の通り道だった。冬に、隊の二人がここを通って川へ降りた。
わたくしは、その道を一歩ずつ測った。
どこで風が強くなるか。どこに岩の陰があるか。立ち止まって休める場所が、道のどちら側にあるか。冬にここを通る人が、暗くなってから引き返すとして、どこまでなら引き返せるか。
引き返せる限界の点に、杭を打った。黄色い頭の杭を、道の右側に。
右側に打つのは、決めごとだった。行きは左手に見え、帰りは右手に見える。どちら向きに歩いているかが、杭の位置で分かる。
この決めごとを作ったのは、四月の終わりだった。作ってから、村の杭を全部、右側へ打ち直した。四十一本のうち、十六本を抜いて立て直した。
その日、わたくしは道の途中の斜面で、器械を据えていた。
ライナー様が、下から上がってこられた。
「川は、いつ測れる」
「二週間後には」
「橋台も測るのか」
「測ります」
ライナー様は、少し黙っておられた。
「あれを図に入れると、どうなる」
「橋台あり、桁なし、渡河不能、と書きます」
「王都の図には、橋があると書いてある」
「はい」
「同じ川の、同じ場所に、違うことが書いてある図が二枚できるわけだ」
わたくしは、器械から目を離した。
「はい」
「どちらが正しいかは、誰が決める」
その問いに、わたくしは答えを持っていなかった。
院にいたころなら、答えられた。正図が正しい。院が定めたものが正しい。そう教わって、そう答えて、十年やってきた。
いまは、答えられなかった。
答えを持っている人が、どこかにいるのかどうかも、分からなかった。
ライナー様は、それ以上聞かずに、斜面を下りていかれた。
途中で一度止まって、こちらを見上げて、こう仰った。
「二週間後は、俺も行く」
「はい」
「泊まりになるな」
「一晩、要ります。星を見ませんと、位置が出ませんので」
その方は、うなずいて、また下りていかれた。
わたくしは器械に戻った。目盛りの上に雲の影が落ちていた。読むには暗い。
雲が抜けるのを待つあいだ、川へ下る道の続きを目で追った。
この道は冬に二人を連れていった。夏に見ると、ただの明るい下り坂だった。危ない道は危なく見えない。危なく見える道で人は死なない。用心するからだ。
【余白より】杭は道の右へ打つこと。行きに左、帰りに右。どちら向きに歩いているかが分かる。
危ない道は、危なく見えません。危なく見える道で人は死にません。用心いたしますので。図がいちばん要りますのは、明るい下り坂のほうでございます。
次回、川で夜を明かします。星を見ませんと、位置が出ませんので。




