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婚約破棄は承りました。では、王都へ戻る道はご自分でお探しください 〜追放された地図師令嬢は、辺境伯と「帰れる地図」を作る〜  作者: 白雪こよみ


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第16話 名前の書き方

 領の測図師になって、最初に変わったのは、紙の量だった。


 領庫から羊皮紙が十二枚出た。墨も、筆も、板も。フェリクス様が帳簿に書き込みながら、「これ、うちの領で一年に買う紙の三倍です」と仰った。


「多うございますか」


「多いですよ。去年までゼロでしたから」


 ゼロを三倍しても、ゼロにしかならない。そう申し上げようとして、やめた。フェリクス様は、そういう冗談を言われる方だった。


 給金は、季節ごとに出る。額を聞いて、わたくしは少し驚いた。院で受け取っていたものより多かった。


 院では、筆写係という肩書きだった。


 最初の給金で、紙を買った。領庫の紙とは別に、自分の帳面のための紙を。それから、蝋を一塊。布を張った下図が十四枚では足りなくなっていた。


 残りで、ニナの靴を買った。


 歩測係の靴は、底が減る。減った靴で歩くと歩幅が変わる。だから、これは道具の手入れにあたる、とフェリクス様に説明した。


 フェリクス様は、帳簿に「測量器具」と書いた。


「よろしいのですか」


「靴は器具です」フェリクス様は、羽根ペンを置いて仰った。「うちの領では、そういうことにしておきます」


    ◇


 春の測量は、村の外へ出た。


 北の谷筋を三本。東の坑のあたりを一枚。それから、ラーン川。


 谷筋を測るのは、丘とは勝手が違った。


 丘は上から全体が見える。谷は見えない。両側の斜面が視線を遮るので、器械を据えても、次の点が木立の裏に隠れている。


 こういう場所では、繋いで進む。見えるところまで測って、そこへ移って、また測る。一日に四回か五回。繋ぐたびに誤差が乗るので、途中で必ず一度、高いところへ登って、全体を見渡して確かめる。


 登るのは、たいていニナだった。わたくしは登るのが遅い。


 高いところから、下の杭が三本並んで見えるかどうかを叫んでもらう。三本が一直線に見えれば、繋ぎ方は合っている。ずれていれば、どこかで一回、角を読み違えている。


 二本目の谷筋で、一度ずれた。読み違えたのは、わたくしだった。


 半日ぶんを測り直した。ニナは文句を言わなかった。文句を言う代わりに、その日の帰りに「あんたでも間違えるんだ」と三回言った。


 ラーン川は、雪解けで水が増えていて、まだ近づけなかった。六月まで待つ。待つあいだに、そこへ至る道を測る。


 ニナは、相変わらず毎日来た。


 来て、歩いて、数えて、帰る。歩測の礼として、季節ごとに銅貨を渡すことにした。領庫から出る。フェリクス様が帳簿に「歩測係」と書いた。


 その書き方を見て、ニナが妙な顔をした。


「それ、あたしのこと?」


「はい」


「なんて書いてあるの」


 わたくしは、帳簿の字を指でなぞった。


「歩測係、と書いてございます。歩いて測る係、という意味です」


 ニナは、その三文字を、しばらく見ていた。


「……その下は」


「お名前でございます」


「あたしの?」


「はい」


 その子は、指を伸ばして、その二文字に触れた。触れて、すぐ引っ込めた。墨が乾いていないと思ったのだと思う。乾いていた。


    ◇


 次の日、ニナは丘へ来なかった。その次の日も。三日目の夕方、集会所の壁の図の前に、その子がいた。


 板の下のほうを、指でなぞっていた。わたくしが書いた署名の枠だ。中に、わたくしの名前が入っている。


「これ、あんたの名前」


「はい」


「長い」


「長うございます」


 ニナは、そこから目を離さずに言った。


「あたしの、短いよ」


「はい」


「短いなら、覚えられる?」


 わたくしは、その子の横に立った。


「二文字でございます。二日あれば覚えられます」


「三日かかったら」


「三日かければよろしいのです」


    ◇


 教えたのは、わたくしではなかった。


 ハーヴェル爺だった。わたくしが教えると、測る手が止まる。爺は日中、やることがない。それだけの理由で決まった。


 教え方は、変わっていた。紙を使わない。土に書く。棒の先で、大きく。


「字は形だ」


 爺はそう仰った。


「絵が読めるなら、字も読める。あれも形だからな。ただ、絵より数が多いだけだ」


 棒は、爺が削ってくださった。先を平たくして、土に太い線が引けるようにしてある。


 書く場所は、集会所の裏の、日の当たる地面と決まった。雨が降ると消える。消えたら、また書く。


 教える順番も、変わっていた。ふつうは字の形から入る。爺は、線の数から入った。


 この字は、線が三本。この字は、線が五本。まず本数を数えさせて、それから、どこから引くかを教える。


 数を数えるのが得意な子には、これが効いた。


 ニナは、自分の名前の一文字目を、その日のうちに書いた。


 二文字目は、三日かかった。


 三日目の夕方に書き上がったとき、その子はしゃがんだまま、しばらく動かなかった。


 それから、靴の底で、消した。わたくしは、なぜ消すのかと伺った。


「明日も書くから」


    ◇


 王都からは、月の便で書状が来る。院からのものが二通あった。


 一通は、任の解除について。北方測図の任は、当分のあいだ継続とする。継続とするが、領の測図師との兼職については院内で検討中である、と。


 もう一通は、事務的なものだった。院内の人事の告示。


 北方遠征に関する調査委員会が設けられ、その長に、測図院長が就いたという。


 名前を、わたくしは初めて見た。コンラート・ヴァイル。


 三年前まで、わたくしのいた院の頂に、この名前があった。あったが、写図室からは遠すぎて、顔を見たことがなかった。


 院長は、写図室へは来ない。


 来る必要がないからだ。写図室にあるのは手であって、判断ではない。判断は上でなされて、下へ降りてくる。降りてくるときには、もう理由がついていない。


 三年、わたくしはその降りてくる紙を受け取る側にいた。


    ◇


 その書状を、フェリクス様に見せた。


「調査委員会」


「はい」


「何を調査するんです」


「谷の崩れの件でございましょう」


「で、その長が、図を作らせてる側の親玉ですか」


 わたくしは、答えなかった。


 答えなかったのは、フェリクス様の言い方が乱暴だったからではない。院ではよくあることだったからだ。何かが起きたとき、いちばん近い場所にいる者が調べる。近い者がいちばん詳しいからだ。それが理屈になっている。


「あなた、そういう顔をするんですね」


「どういう顔でございますか」


「怒ってないのに、目だけが動く顔です」


 わたくしは、書状をたたんだ。


 夕方、壁の図の前を通ったら、ニナがまた、土に自分の名前を書いていた。


 二文字の横に、もう一つ何か書いてある。


 近づいて見たら、丸だった。井戸の印だ。名前の隣に、自分の家の井戸を描いてある。


 どうしてそこに井戸を描いたのかは、伺わなかった。今度は、消していなかった。

【余白より】羊皮紙十二枚。歩測係の靴、一足。帳簿には測量器具と書かれた。


名前の隣に、丸がひとつ描いてございました。井戸の印でございます。どうしてそこに井戸を描いたのかは、伺いませんでした。今度は、消しておりませんでした。


次回、王都に新しい顔が出ます。線を引かない院長でございます。

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