第15話 署名
朝の広間は、明るかった。
北向きの窓しかない王都の写図室と違って、この館の広間は南に窓がある。四月の光は、卓の上の紙をまっすぐ照らして、影を作らない。
図を見るには、悪い光だった。影が出ないと、紙の凹凸が読めない。
オズヴァルト殿は、卓の前に立っておられた。書記が二人、その後ろに。
ライナー様は、まだ座っておられた。
「答えを聞こう」
「その前に、ひとつ確かめたい」
ライナー様は、そう仰った。
「この図を院へ渡したあと、あんたたちはどうする」
「清書し、写しを取り、書庫に納めます」
「余白の印は」
オズヴァルト殿は、答えられなかった。
正しくは、答えるまでに一拍あった。その一拍で、部屋の全員に答えが伝わった。
「落とすんだな」
「……記号として認められていないものは、正図には載せられません」
「では、この領の峠の吹き溜まりは、王都の図から消える」
「消えるのではありません。載らないだけです」
「同じことだ」
ライナー様は、立ち上がられた。
◇
「渡さん」
短い言葉だった。
「この図は、ノルトフェルト辺境伯領の図として、この領に置く」
「命令に反します」
「命令は、そこの娘に出たものだろう。図の帰属は別の話だ」
「同じです。任にある者が作成したものは——」
「ならば、任の外で作らせる」
ライナー様は、卓のいちばん手前の一枚を引き寄せられた。
村の図だった。四十一本の杭と、二本の川と、冬に通らない道が描いてある。
「リーゼロッテ・フォン・アルストレム」
名前を呼ばれたのは、初めてだった。
「はい」
「本日をもって、ノルトフェルト辺境伯領の測図師として雇う。給金は領庫から出す。院の任とは別だ」
わたくしは、返事ができなかった。
「これから先、この領で引く線は、院の命ではなく、俺の命で引くものになる。……受けるか」
オズヴァルト殿が、口を開かれた。
「辺境伯。院の任にある者を、領が召し抱えるのは——」
「禁じられてはおらん」ライナー様は、そちらを見ずに仰った。「調べた。ゆうべ、うちの書庫にある王国法の写しを全部見た。任にある者の兼職を禁じる条文はない。任を解く権限は院にあるが、雇う権限は領主にある」
「屁理屈です」
「そうだ。屁理屈だ」
ライナー様は、そこで初めてオズヴァルト殿のほうを向かれた。
「あんたたちが十四年、うちの領に対して使ってきたのと、同じ種類のものだ」
◇
受ける、と申し上げるのに、少し時間がかかった。
考えていたのではない。声が出るまでに、それだけかかった。
考えることは、前の晩に済んでいた。廊下を歩く音が二階と一階で途切れなかったあの晩、わたくしは五枚の図を並べて、どれを渡してどれを残すかを数えていた。数えた時点で、答えは出ていた。
出ていた答えを、口に出すのに時間がかかるというのは、不思議なものだった。
「お受けいたします」
ライナー様は、うなずかれた。それから、卓の上の図の、右下を見た。
余白がある。何も書いていない。院の図なら、そこに二重の細い枠があって、中に測図者の名が入る。
「ここは、なぜ空いている」
「……署名の枠でございます」
「名前を入れる場所か」
「はい」
「なぜ入れていない」
わたくしは、答えられなかった。十年、答えずに来た問いだった。
ライナー様は、書記から羽根ペンを取って、こちらへ差し出された。
「書け。お前の名前で書け。うちの領の図だ」
◇
ペンを受け取った手が、うまく動かなかった。
枠を引く手つきだけは、誰よりも速い。十年、他人のためにその枠を引いてきた。二重の細い線。外の線と内の線のあいだは、指の爪の幅。
引いた。いつもと同じ速さで引けた。中に、名前を入れる。最初の一文字を書いたところで、手が止まった。
止まったのは、迷ったからではない。字の大きさが分からなかったからだ。他人の名前を入れるときは、その人の席次に合わせて大きさを決める。自分の席次を、わたくしは知らなかった。
「小さいぞ」
ライナー様が仰った。
わたくしは、書き直した。
ノルトフェルト辺境伯領 測図師 リーゼロッテ・フォン・アルストレム。
書き終えて、墨が乾くのを待った。
紙の上で、自分の名前が乾いていくのを見ていた。それだけのことに、思っていたより時間がかかった。
乾くまでのあいだ、卓の向こうで誰も喋らなかった。
トマスさんが咳をした。ローデさんが足を組み替えた。書記の羽根ペンが紙を擦る音が、二度した。
枠の中の字は、思ったより収まりが悪かった。名前が長い。フォンから先を小さくすればよかったと、乾いてから気づいた。
直せない。墨は乾いている。次の図から、直すことにした。
◇
オズヴァルト殿は、最後まで見ておられた。
止めようとはされなかった。止める権限が、その方には無かったのだと思う。査察官が持っているのは、検めて報告する権限で、領主の雇用を止める権限ではない。
書記に何か書き取らせて、それから、卓の上の図をもう一度見た。
右下の枠を。
「アルストレム」
「はい」
「その名前は、重いぞ」
わたくしは、頭を下げた。
褒められたのだと思った。この方なりの、餞のような言葉だと。
「ありがとうございます」
オズヴァルト殿は、少しのあいだ、こちらを見ておられた。
それから、外套を取って、広間を出ていかれた。
馬車が門を出るとき、わたくしは見送りに立った。窓は開かなかった。
あとになって、あの言葉の意味を考え直すことになる。その名前は、重いぞ。
あのとき、わたくしは餞だと受け取った。十年同じ部屋にいた人が、去っていく者に向けて言う、少し不器用な祝いの言葉だと。
オズヴァルト・レーマー殿は、たぶん、そういうつもりでは仰っていなかった。
あの方は、自分の名前が入った図が、どこで何をしているかを、知っている人だった。
◇
その日から、村の図には、わたくしの名前が入っている。
夕方、集会所の壁の図の前に、ハーヴェル爺が立っておられた。
壁の図には、まだ枠がない。板に張った麻布のほうだ。
「これにも入れるのかね」
「……どういたしましょう」
「入れなさい」爺は仰った。「入れたら、逃げられんぞ」
「はい」
「逃げられんというのはな、間違えたときに、誰のせいか分かるということだ」
「はい」
「それが嫌で、院は席次のある者に入れさせる。席次のある者は、間違えても飛ばされる先がある」
爺は、そこで壁の図を見上げられた。
「あんたには、飛ばされる先がもう無い」
わたくしは、筆を取って、壁の図の右下に枠を引いた。二重の細い線。あいだは、指の爪の幅。
中に名前を書きながら、ふと、王都の写図室のことを思い出した。
北方十二里の原図の右下には、いま、誰の名前が入っているだろう。
【余白より】署名の枠、二重の細線。あいだは爪の幅。名前が長い。次から幅を先に測ること。
逃げられないというのは、間違えたときに誰のせいか分かるということでございます。名前を書きますのは名誉ではなく、そういう意味でございます。
次回、ニナが自分の名前を書きたい、と言い出します。二文字でございます。
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