第14話 無許可の測図
雪が解けると、土地の形が変わる。
厳密には、雪の下から出てきた形が本当の形で、冬に測ったのは雪の形だった。だから春には測り直す。二度手間ではない。冬の形も夏の形も、どちらもこの土地の顔だから、両方を持っていないと季節を跨いだ図にならない。
四月の初めから、村の周りをもう一度歩いた。
川が太くなっていた。冬に細い線で引いた沢が、いまは渡れない幅になっている。渡り場を三か所、位置を直した。橋のかかっていない渡り場には、水嵩の目安を書き足した。膝までなら渡れる。腰まで来たら渡らない。
この「腰まで」を、どう図に描くかで二日考えた。
結局、渡り場の脇に、人の形を小さく描いて、腰のところに線を一本入れた。文字は使っていない。ニナに見せたら、一目で分かったと言った。
そのあとで、こう付け足された。
「でも、腰の高さって、人によってちがうよ」
その通りだった。わたくしは人の形を二つ描き直した。大人と、子どもと。子どもの腰の線は、大人の膝より下に来る。
図というのは、直すたびに、誰のために描いているのかがはっきりしてくる。
◇
オズヴァルト・レーマー殿が着いたのは、四月の二十日だった。
馬車が二台。書記が二人と、護衛の兵が四人。査察としては大きな一行だった。
前の日から、館では支度をしていた。
客間を二つ空け、厩を掃き、飼葉を足す。護衛の兵が四人来ると分かっていたので、厨房の食事の数も変えた。フェリクス様が、その全部を半日でやってのけた。
わたくしは、図を並べる順番を決めていた。
村の図を最初に、峠の図を二番目に。命が助かった話のある図から見せる。谷の図と川の図は最後にする。あれを最初に出せば、話が責任の所在に寄ってしまう。
結局、その順番は役に立たなかった。わたくしは、館の門で迎えた。
半年ぶりに近くで見るその方は、少し痩せておられた。旅のせいだと思った。あとで、そうではないと分かった。
「アルストレム」
「お久しゅうございます」
「北は寒かったろう」
同じことを、この半年で二度言われた。
◇
査察は、広間で行われた。
卓の上に、わたくしの図を並べさせられた。村の図、峠の図、坑の図、谷の図、川の図。清書したものが五枚。下図の蝋布が十四枚。帳面が三冊。
オズヴァルト殿は、一枚ずつ、時間をかけて見ておられた。
見る手つきは、写図室のときと同じだった。真ん中を指の腹で二度押さえて、それから縁へ目を移す。
縁のところで、手が止まった。
余白に、印が並んでいる。点。横棒。斜線。四角。人の形と、腰の線。
「これは何だ」
「印でございます」
「院の定めにない」
「ございません」
「誰が定めた」
「わたくしが定めました。村の方々と相談して」
オズヴァルト殿は、顔を上げた。
「相談して」
「はい」
「アルストレム。院の測図師が、村人と相談して記号を定めるというのは、どういうことか分かっているか」
わたくしは、答えなかった。答えは、たぶん、この方の中で決まっていた。
「院の図は、王国のどこで開いても同じに読めなければならない。だから記号を定める。土地ごとに勝手な印を作れば、それは図ではない。落書きだ」
◇
落書き、という言葉が出たとき、部屋の空気が変わった。変えたのは、わたくしではない。
壁ぎわに立っていたトマスさんと、ローデさんと、集会所から呼ばれてきた村の方が三人。査察の立会人として来ていただいていた。
その方たちが、動いたわけではない。ただ、聞いていた。
「この図によって、命が助かった者がおります」
わたくしは、そう申し上げた。
「二月に、木こりの親子が。三月に、炭焼きから戻る者が二度」
「それは結構なことだ」オズヴァルト殿は、書類をめくった。「だが、査察の対象ではない」
「では、何が対象でございますか」
「権限だ」
その方は、書状を一枚、卓に置かれた。院の用箋。院長の署名。
「北方測図の任は、院の命により発せられたものだ。任にある者が現地で作成した図は、院の資産にあたる。原本および控えの全てを、院へ引き渡すこと」
「これは、ノルトフェルト領の——」
「命により作成された図だ。誰の土地を測ったかは関係ない」
オズヴァルト殿は、そこで初めて、少し声を落とされた。
「アルストレム。悪いようにはしない。院へ戻れる道もある」
◇
その言葉に、わたくしは顔を上げてしまった。
情けない話だと思う。半年、王都のことを考えなかった日はなかった。写図室の北向きの窓と、墨と膠の匂いと、三年働いた娘の字と。
オズヴァルト殿は、そのわたくしの顔を見ておられた。
見て、少し安心されたようだった。この方は、わたくしがどこで動くかを知っている。十年、同じ部屋にいた。
「図を出せば、任は解ける。年内には戻れる」
「……図は、五枚でございます」
「五枚とも」
「壁のものも、でございますか」
「壁」
「集会所の壁に、一枚貼ってございます。板に麻布を張ったもので、大人の背丈ほどございます。あれも、図でございます」
オズヴァルト殿は、少し黙ってから、書記のほうを見た。
「見に行く」
◇
集会所には、その日のうちに行った。壁の図の前で、オズヴァルト殿はしばらく動かなかった。
字が一つもない図を、この方が見るのは初めてだったと思う。
子どもが二人、隅で点を数えて遊んでいた。ニナが「うるさい」と叱って、それで静かになった。
「これは、誰のものだ」
その問いに、村の方が答えた。トマスさんだった。
「うちのだ」
「作ったのは、そこの者だろう」
「板はうちの戸だ。布はうちのかみさんが縫った。線はあの人が引いた」
トマスさんは、そう言った。
「だから、うちのだ」
オズヴァルト殿は、返事をされなかった。書記に何か書き取らせて、それから外へ出ていかれた。
◇
その晩、ライナー様が広間に人を集められた。
オズヴァルト殿は、宿として館の客間を使っておられる。同じ屋根の下で、明日の答えを決める。
卓の上には、五枚の図と、院の書状。
「明日、答える」
ライナー様は、それだけ仰った。
「どう答えるかは、まだ決めていない」
フェリクス様が何か言おうとして、やめた。わたくしも、何も申し上げなかった。わたくしは、部屋へ戻ってから、五枚の図を順に見た。
どれも、渡せば消える印がある。峠の吹き溜まり。坑口の三つ目。渡り場の腰の線。冬に通らない道の破線。
消えても、村の壁の図は残る。あれは板で、持ち出すには馬車が要る。
そこまで考えて、自分がもう「どちらを守るか」を決めているのに気づいた。
院へ戻れる道もある、と言われて顔を上げた人間が、その半日後には、どの図を残すかを数えている。
どちらの自分も本当だった。
その晩、館の廊下を歩く音が、二階と一階で、明け方まで途切れなかった。
【余白より】清書五枚、下図十四枚、帳面三冊。壁のものは、板ごと持っていくのだという。
どちらを守るか、を数えはじめたところで、自分がもう決めていることに気づく回でございます。院へ戻れる道もある、と言われた、その半日後のことでございました。
次回、辺境伯が口を開かれます。図の右下の枠に、初めて名前が入ります。




