第13話 文字のない地図
逆さに持っていることを、わたくしはその場では言わなかった。
言えば、この子は二度と図を持たなくなると思った。
次の日、丘へ行くときに、道の途中で立ち止まって、こう申し上げた。
「ニナ。ひとつ、教えていただきたいことがございます」
「なに」
「この図の、ここに書いてある字は、何と読みますか」
村の名を指した。四文字。わたくしの字で、いちばん大きく書いてある。
ニナは、そこを見た。それから、わたくしの顔を見た。それから、また紙を見て、少しのあいだ、動かなかった。
「……絵じゃない」
小さい声だった。
「絵じゃないところは、あたし、読まない」
◇
母親のヘルダさんに、あとで伺った。
この村に学校はない。字を読むのは、村長と、産婆と、あとは館へ勤めに出た者だけ。ニナは冬に生まれて、六つのときに父親を亡くして、それから母親と二人で働いている。
「数は数えられるんだよ」
ヘルダさんは、あの日と同じことを仰った。
「数だけは、あの子、誰よりも」
わたくしは、うなずいた。
あの子は、記号を全部覚えていた。丸は井戸、三角は屋根、波は水。教えたのは一度だけで、二度目からは自分で言い当てた。図の上の絵は、全部読めている。
読めないのは、字のところだけだ。だから、上下が分からない。
図の向きを決めているのは、たいてい文字だ。文字が読める人は、字が正しく並ぶほうを上にする。読めない人には、その手がかりが無い。
◇
その晩、わたくしは村の図を、もう一枚描き直した。字を、一文字も使わずに。
村の名は、村の形で描いた。家が十一軒、井戸がひとつ、教会の代わりの集会所がひとつ。上から見た形をそのまま置けば、村を知っている人には、それが村だと分かる。
方角は、太陽で示した。図の上のほうに、日の出の印を右、日の入りの印を左に置く。朝に太陽が昇るほうへ体を向ければ、図の向きが決まる。
道は太さで分けた。荷車の通る道は太く、人だけの道は細く、冬に通らない道は破線。
水場は波。炭焼き小屋は煙。危ないところは、横棒を三本。
横棒三本は、トマスさんの図に書いたのと同じ印だ。あの晩、あの人が覚えていた印だった。
いちばん迷ったのは、距離だった。数字を書けない。けれど、ニナは数が数えられる。だから、道の上に点を打った。
点ひとつが、大人の百歩。村から水場まで、点が四つ。水場から炭焼き小屋まで、点が七つ。
歩いて数えれば、合っているかどうか、自分で確かめられる。
◇
朝、丘でニナに見せた。
その子は、しばらく黙って見ていた。それから、指で道を辿った。点を数えながら。
「四つ」
「はい」
「水場まで四百歩ってこと」
「はい」
「……これ、上がこっち?」
ニナは、日の出の印を指した。
「はい」
その子は、図を回した。回して、また回して、正しい向きで止めた。
止めてから、こちらを見上げた。
「読める」
「はい」
「あたし、これ、読める」
二回言った。
わたくしは、何か申し上げようとして、うまくいかなかった。
◇
その図を、村の集会所の壁に貼った。
紙では保たないので、板に麻布を張って、その上に描き直した。大きさは大人の背丈ほど。二日かかった。
板は集会所の古い戸を外して使った。麻布は村の女の方たちが継いでくださった。一枚では足りないので三枚を縫い合わせている。縫い目のところで線が歪むから、縫い目が道や水場に重ならないように置き方を決めた。
布を板に張るときは水で湿らせてから引っ張る。乾くと縮んで、太鼓の皮のように張る。これはヘルダさんが知っていた。冬に窓を塞ぐのに同じことをするのだそうだ。
墨は太い筆で引いた。細い線では遠くから見えない。壁に貼るものは、離れて見るものだから、机の上の図とは太さを変えなければならない。
この加減が分からなくて、一度目は細すぎた。二度目は太すぎた。三度目でようやく釣り合った。
貼った日、村じゅうが見に来た。
いちばん長くいたのは、年寄りの方たちだった。字を読める人は、村に三人しかいない。残りの方たちは、これまで図というものを、見ても仕方のないものとして扱ってきた。
マルタさんが、川沿いの道を指で辿って、点を数えていた。
「九つだ」
「はい」
「北回りは」
「十二でございます」
その方は、うん、と言って、それきり何も仰らなかった。
子どもたちは、点を数えるのを遊びにし始めた。誰が正しく数えられるか。ニナが審判をしていた。この子は、自分の数と合わない子に、容赦がなかった。
トマスさんは、自分の家のところに点が一つも打っていないのを見つけて、なぜだと言った。
村の中の道には点を打っていない。近すぎて、数える必要がないからだ。そう申し上げたら、その人は納得しなかった。
「打っといてくれ。うちのは、うちの前まで」
わたくしは筆を出して、その場で三つ打った。
三百歩ぶんではない。集会所からトマスさんの家までは、実際には百二十歩ほどしかない。けれど、その人はそこに点が欲しかった。
図に自分の家が載るというのは、そういうことなのだと、そのとき初めて分かった。
夕方、ハーヴェル爺が来て、壁の前にしばらく立っておられた。
「これは、院では作れんな」
「はい」
「院の図は、読める者のために作る。これは、読めん者のために作ってある」
爺は、そう仰った。それから、少し笑われた。
「わしは四十年、前のほうを作っとった」
◇
ニナが、歌の話をしたのは、その帰り道だった。
北へ三つ、水がある。東へ二つ、木がある。西へ行くなら、日のあるうちに。
「あれ、点だったんじゃない」
立ち止まった。
「三つって、水場が三つじゃなくて、点が三つってこと。ばあちゃんも、こういうの数えてたんじゃないの」
わたくしは、しばらく声が出なかった。
北へ三つ。点ひとつが百歩なら、三百歩。村の井戸から北へ三百歩のところに、確かに湧き水がある。測ってある。
この村は、文字を持たないまま、歌で距離を持っていた。
わたくしが作ったと思っていたやり方は、たぶん、この土地がとっくに持っていたものだった。
歌の続きを、ニナに全部歌ってもらった。
四番まであった。三番の「東へ二つ、木がある」は、村から東へ二百歩の、二本並んだ樅のことだった。ここも測ってある。四番の「西へ行くなら、日のあるうちに」には数が入っていない。数の代わりに、時刻が入っている。
西の道は、日が落ちると危ないという意味だ。わたくしが横棒を三本引いた道と、同じ道だった。
誰が作った歌かは、誰も知らなかった。ばあちゃんが歌っていた、とニナは言い、そのばあちゃんも誰かから聞いたのだろう。
◇
館へ戻ると、フェリクス様が待っておられた。王都からの書状が、また届いていた。査察官の名が記してある。王立測図院 次席 オズヴァルト・レーマー。到着は、雪解けのころ。
【余白より】文字を使わぬ図、一枚。点ひとつが大人の百歩。日の出を右に置く。
文字を使わない図は、点の数と向きだけで距離を持たせます。もっとも、この村は文字を持たないまま、歌のほうで距離を持っておりました。作ったつもりのものが、もとからこの土地にあった回でございます。
第二章「写しの写し」は、ここまで。次回、査察が来ます。王立測図院 次席 オズヴァルト・レーマー。原図の右下に名前を書いている方でございます。
ブックマークと評価は、記号を描く筆の代金に充てさせていただきます。




