第12話 地図が古かっただけだ
ジークベルト様が館へ来られたのは、それから六日後だった。
隊の後始末のためだという。死んだ者の名を控え、荷を数え、援助を出した領へ礼を述べる。書式に定められた手順で、参事官が自ら来るのは、むしろ丁寧なほうだった。
朝から、館では人が動いていた。
広間の椅子を出し、暖炉に薪を足し、卓の傷を布で隠す。ヘルダさんが厨房で湯を沸かして、パンを二度焼いた。こういう客のときは、出すものより出し方で見られる。
フェリクス様は、その全部を差配しながら、いちど廊下でわたくしとすれ違って、こう仰った。
「あなた、出なくてもいいんですよ」
「はい」
「出ますよね」
「……はい」
広間には、ライナー様とフェリクス様、それに書記が一人。わたくしは壁ぎわに立っていた。呼ばれたわけではない。ライナー様が「いろ」と仰ったので、いた。
「このたびは、ご助力に感謝する」
ジークベルト様は、外套を脱がずにそう仰った。館が寒いからではない。長居しないという意思表示だった。
「掘ったのはうちの者ではない。ミュールの村人が半分だ」
「では、そちらへも書状を出そう」
書記が羽根ペンを走らせた。それから、ジークベルト様は、わたくしのほうを見た。
半年ぶりだった。驚いた顔はされなかった。ここにいることは、要請書を出した時点でご存じだったのだと思う。
「久しいな」
「はい」
「北は、寒かったか」
「寒うございました」
それだけだった。
◇
最初にやったのは、名前を控えることだった。
書記が名簿を読み上げ、ジークベルト様が確認して、印を押す。死んだ者が十一人。はじめに掘り出された二人と、あとから出た七人と、川辺で見つかった二人。
読み上げは、四半刻ほどで終わった。
名前が読まれるあいだ、ライナー様は一度も動かれなかった。組んだ腕の左手だけが、いつもより深く肘の内側に入っていた。
最後の名が読まれたとき、フェリクス様が壁の暦を見た。
この領では、名前を数えるという習慣がある。数えて、覚える。それがどういうことか、この日、わたくしは横で見ていて分かった。
話が経路の件に及んだのは、そのあとだった。持ち出したのはライナー様だった。
「野営の場所は、誰が決めた」
「隊長だ」
「その隊長は」
「崩れの下にいた」
ライナー様は、それきり何も仰らなかった。仰らないことで、部屋の中の何かが動いた。
ジークベルト様は、卓の上に手を置かれた。
「言いたいことは分かる。だが、経路の選定に瑕疵はない。院の正図に基づいている」
「その図に、あの斜面のことは書いてあったか」
「書いていない」
「なら、瑕疵だろう」
「違う」
ジークベルト様の声は、荒くならなかった。この方は、こういうときに声を荒らげない。荒らげないほうが強いと知っておられる。
「図が古かっただけだ」
わたくしは、壁ぎわで、その言葉を聞いた。
「あの図は、三年前の測量に基づく。三年のあいだに、斜面は変わる。誰の落ち度でもない。強いて言えば、更新の予算を出さなかった財務の落ち度だ」
「三年前にも、あの斜面は崩れていた」
ライナー様が言った。
「あんたのところの図が古いのではない。最初から、書いていないんだ」
「書いてある図があるというのか」
部屋が、こちらを向いた。
◇
わたくしは、壁ぎわから一歩出た。
「三年前、あの斜面には、印を打っておりました」
「印」
「余白に、短い横棒を一本。土が緩い、という意味でございます」
「聞いたことがないな。そのような記号は」
「院の定めにはございません。わたくしが決めたものです」
ジークベルト様は、少しのあいだ、こちらを見ておられた。
それから、笑われた。声を上げてではない。口の端だけで。
「君が勝手に決めた記号を、清書の者が落とした。それを、こちらの落ち度だと言うのか」
「いいえ」
わたくしは、そう申し上げた。
「落ち度の話をしているのではございません」
「では何の話だ」
「あの谷では、日の入りより二刻早く暗くなります。東の斜面は土が緩く、雪が乗ると崩れます。川には橋がございません。橋台だけが十四年、立っております」
わたくしは、腰の蝋布を外して、卓の上に広げた。谷の図。川の図。橋台の位置と、書き足した一行。
「これらは、いま、どの図にも書かれておりません。ですから、書き足します」
「……何を言っている」
「書き足す、と申し上げました」
わたくしは、布の縁を指で押さえた。
「怒ってはおりません。恨んでもおりません。それをしても、次の隊が同じ場所で暗くなります。ですから、書き足すよりほかにございません」
ジークベルト様は、しばらく黙っておられた。
その沈黙が、わたくしの言葉に対するものだったのか、卓の上の布に対するものだったのかは、分からない。
やがて、その方は外套の襟を直された。
「その図は、院へ出せ」
「え」
「北方測図の任にある者が現地で作成した図だ。院の資産にあたる。提出を命ずる書状は、すでに出ているはずだ」
◇
「送らん」
言ったのは、ライナー様だった。
「これはうちの領の図だ。うちの村の井戸と、うちの峠の吹き溜まりが書いてある。院へやる理由がない」
「命令だ」
「誰への命令だ。この娘は院の者かもしれんが、この図はうちの土地の話だ」
ジークベルト様は、扉のところで足を止められた。
「では、院が確かめに来ることになる」
「来ればいい」
「査察官が来る。図の由来と、権限の所在を検める」
その言い方は、脅しではなかった。ただ手続きを述べておられた。この方にとっては、それがいちばん自然な脅し方だった。
扉が閉まる前に、ジークベルト様はもう一度だけ振り返られた。
「リーゼロッテ」
「はい」
「君は、私が悪いと思っているのか」
わたくしは、少し考えた。考えて、正直に申し上げた。
「思っておりません。あなた様は、渡された図のとおりに歩かせただけでございます」
その方は、うなずいて出ていかれた。
満足されたのだと思う。わたくしの言葉の後半を、聞いておられなかったのだと思う。
◇
馬車が門を出ていったあと、フェリクス様が大きく息を吐いた。
「領主、あれ、けっこう面倒ですよ」
「知っている」
わたくしは、卓の上の蝋布を巻いていた。
いつもどおり、指三本ぶんの隙間を残して、麻紐を二重に。端は引けばほどける結び方で。
顔を上げると、ニナが広間の入口に立っていた。
いつからいたのか分からない。手には、村の図の写しを一枚持っている。わたくしが練習用に描いて渡したものだ。
その子は、それを胸の前に広げて持っていた。上下が、逆さだった。
【余白より】本日、書き足すと申し上げた。ほかにやりようを思いつかなかった。
怒鳴りません。この人は、第一部を通して一度も怒鳴らない設計でございます。詫びない相手に返すのが、上の一行でございます。
次回、ニナが地図を逆さに持っております。文字が読めないからでございます。




