第9話 泥濘の絶望と深淵なる因縁
北方の極寒の地に位置する『死の鉱山』。容赦なく吹き付ける吹雪の中、かつて王国最強と謳われた魔法騎士団長ルクレツィアは、凍傷で黒く変色しかけた手で、重いツルハシを岩肌に打ち付けていた。
彼女が纏っているのは、かつての燃えるような真紅のドレスではなく、悪臭を放つ粗末な麻袋である。艶やかだった金糸の髪は泥と埃にまみれて無残に固まり、その顔は飢えと過労でひどく落ち窪んでいた。
「おい、手を休めるな! ノルマが終わるまで、飯も水も抜きだぞ!」
看守の容赦ない鞭が、ルクレツィアの細い背中を鋭く打ち据える。
「ああっ……!」
雪の積もる地面に倒れ込み、彼女は苦痛に顔を歪めた。
首に嵌められた分厚い鉄の首輪、魔力の流動を完全に封じる『封魔の枷』が、痛いほどに冷たく首筋に食い込んでいる。
泥水をすすりながら息を整えようとした彼女の耳に、暖を取っている看守たちの雑談が風に乗って聞こえてきた。
「なあ、聞いたか? 東の巨大なガルディア帝国が、たった一日にして滅びたらしいぞ」
「ああ、王都からの物資輸送隊が噂していたな。『幻影の天秤』とかいう裏社会の盟主が、たった一人で帝国の三十万の軍勢を消し飛ばして、無敵のはずの帝都の結界も指先一つで粉々に砕いたって話だ」
「信じられねえよな。しかもその盟主ってのが、ついこの間まで、うちの没落した魔法騎士団長の夫だったっていうじゃないか」
看守たちは、地面に這いつくばるルクレツィアをチラリと見て、下劣な嘲笑を漏らした。
「あんな神みたいな化け物を『無能だ』って言って自分から家から追い出して、挙句の果てに奴隷に落ちるなんてな。どれだけ頭が空っぽだったら、あんな真似ができるんだか。今頃、あの盟主様は帝国の皇帝を足下に傅かせて、世界を支配しているってのによ」
看守たちの言葉一つ一つが、鋭いナイフとなってルクレツィアの胸をえぐった。
「あ……あぁ……」
ゼーレンが、あの巨大なガルディア帝国すらも滅ぼした。三十万の軍勢を消し飛ばし、絶対の結界を指先で砕いた。それが、自分の夫だった男なのだ。もし。もし自分が彼を裏切らず、入り婿としてではなく、一人の伴侶として彼を愛し、寄り添い続けていたなら。
自分は今頃、この泥濘の中で鞭打たれる奴隷ではなく、帝国すらもひれ伏す世界の女王として、永遠の栄光を手に入れていたはずなのだ。
「あああああぁぁぁぁっ!」
ルクレツィアは頭を抱え、吹雪の中で獣のように発狂した悲鳴を上げた。
自分の才能など初めから何一つなかった。自分が無敵だと思っていたのは、すべてあの男が隣にいてくれたからだったのだ。
取り返しのつかない圧倒的な後悔が、彼女の精神を完全に破壊していく。彼女の人生にはもはや、死ぬまでこの泥濘の中で己の愚かさを呪い続けるという、底なしの地獄しか残されていなかった。
一方、ガルディア帝国。白亜の宮殿の最奥に位置する、広大な玉座の間。かつては大陸一の権力を誇っていたその部屋は、今や完全な死の静寂に支配されていた。
玉座へ続く真紅の絨毯の上を、漆黒の外套を纏ったゼーレンが悠然と歩を進める。その両脇には、第一王女エレオノーラと、帝国の第一皇女アウローラの二人が付き従い、さらに背後には『幻影の天秤』の大幹部たちが無言で控えていた。
玉座の前に立ちはだかるはずの近衛騎士たちは、皆一様に白目を剥き、口から泡を吹いて床に転がっている。ゼーレンが放った、ほんのわずかな覇気の当ててにすら耐えられなかったのだ。
「ひっ……! く、来るな! 化け物め!」
玉座の背もたれにしがみつき、腰を抜かして震えているのは、ガルディア帝国皇帝ヴァルデマールであった。
「ア、アウローラ! 貴様、実の父親を裏切って帝都の門を開けるとは、正気か! この売国奴め!」
父親の血走った目による罵倒を受け、アウローラは静かに、そして冷酷に微笑んだ。
「お父様。貴方が神託を無視し、私を道具として塔に幽閉してきた結果がこれです。私は裏切ったのではありません。ただ、貴方よりも遥かに強大で、仕えるに足る真の絶対者をお迎えしただけのこと」
アウローラはゼーレンに向かって優雅に一礼し、玉座を指し示した。
「さあ、我が主よ。この腐敗した皇帝の首を刎ね、その玉座にお座りくださいませ」
「……己の国と血族をここまで容易く切り捨てるとは、狂信もここまで来れば滑稽だな」
ゼーレンは退屈そうに呟きながら、玉座へ向かって大理石の階段を上り始めた。
「お、おのれ! 帝国の歴史を舐めるなァァッ!」
追い詰められた皇帝が、隠し持っていた帝室秘伝の魔剣を引き抜き、ゼーレンに向かって必死の斬撃を放った。伝説の魔獣の骨を鍛え上げた、触れるものすべてを腐食させる呪いの剣である。
しかし。
――バキィッ! 鈍い破砕音が響き、皇帝の体は大きく宙を舞って、玉座の間の硬い床に無様に叩きつけられた。
「がはっ……!? ば、馬鹿な……秘伝の魔剣が……!」
皇帝が震える手で見上げた先。ゼーレンは、皇帝が振り下ろしたはずの魔剣の刃を、たった二本の指で挟み込み、そのまま飴細工のようにへし折っていた。
「一国の主の最後の足掻きが、その程度の鈍らとはな。退屈すぎる」
ゼーレンが折れた魔剣の破片を床に捨てると、皇帝は完全に絶望し、床に顔を擦りつけて命乞いを始めた。
「わ、私が悪かった! 帝国の領土も、財産も、すべて貴様にくれてやる! だから命だけは、命だけはお助けを!」
「処断しろ。汚い声を聞くのも不愉快だ」
ゼーレンが冷たく言い放つと、アウローラが恍惚とした表情で前に進み出た。
「はっ! 我が主の御心のままに!」
彼女は隠し持っていた銀の短剣を振り下ろし、実の父親である皇帝の命を、一切の躊躇なく刈り取った。血飛沫を浴びながら微笑むその姿は、狂気そのものであった。
皇帝の死により、ガルディア帝国は完全に滅亡した。しかし、ゼーレンの視線は、血濡れた玉座ではなく、その背後にある豪奢な壁画に向けられていた。
「……玉座の下に、奇妙な魔力の残滓があるな。隠し部屋か」
ゼーレンが床の大理石を軽く踏み抜くと、そこには地下へ続く隠し階段が現れた。
幹部たちを伴って地下の隠し宝物庫へと降り立ったゼーレンの目に飛び込んできたのは、金銀財宝ではなく、山のように積まれた黒い木箱と、怪しげな紫色の水晶玉の数々だった。そして、その木箱の一つに刻印されていた紋章を見た瞬間、ゼーレンの周囲の空気が、これまでにないほど冷たく、鋭く張り詰めた。
「盟主様……その紋章は」
大魔導士の幹部が、息を呑んで声を震わせた。
紫色の炎に包まれた、三つ目の髑髏。それは、ゼーレンにとって絶対に忘れることのできない、因縁の印であった。
「ああ。数年前、私にあの厄介な呪毒を盛った連中の紋章だ」
ゼーレンの低く静かな声が、宝物庫に響き渡る。かつて、圧倒的な力を持っていたゼーレンが、なぜ瀕死の重傷を負い、ルクレツィアに拾われる羽目になったのか。彼に呪毒を盛ったのは、『冥星教団』と呼ばれる、大陸の裏側で暗躍する狂気の暗殺教団であった。
ゼーレンは木箱の中を検め、大量の書簡や魔導具の取引記録を手に取った。
「……なるほど。点と点が繋がったな。私に毒を盛った連中の最大のスポンサーが、このガルディア帝国だったというわけだ」
帝国は、世界を裏から支配する『幻影の天秤』を疎ましく思い、新興の冥星教団に莫大な資金を援助して、ゼーレンの暗殺を企てていたのだ。
「……退屈しのぎの戦争のつもりだったが、思いがけず良い獲物の尻尾を踏んだようだ」
ゼーレンの漆黒の瞳に、これまで一度も見せたことのない、明確な殺意と復讐の炎が宿った。
妻への恩返しという「箱庭」の遊戯は終わった。帝国という「表の舞台」の蹂躙も、終わった。ここから始まるのは、世界を巻き込んだ、自らを害した真の敵への絶対的な報復である。
「天秤の刃どもよ。次の標的が決まった」
ゼーレンの声に、幹部たちが一斉に膝をつき、絶対の忠誠を示す。
「世界中の石の裏までひっくり返してでも、『冥星教団』の残党を炙り出せ。私に刃を向けた代償を、彼らの血と絶望で支払わせてやる」
深淵の王による、真の覇道と報復の戦いが、今まさに幕を開けようとしていた。




