第8話 崩落の帝国と予言の皇女
東の強国、ガルディア帝国の帝都。その中心にそびえ立つ絢爛たる白亜の宮殿において、皇帝ヴァルデマールは玉座から転げ落ちんばかりの勢いで身を乗り出していた。
「……何だと? もう一度言ってみろ」
「は、はい……! 国境へ進軍したガングレフ将軍率いる三十万の主力軍が、全滅いたしました……! 生存者は、ただの一人も確認されておりません!」
血まみれになった伝令の兵士が、床に額を擦りつけながら悲鳴のような報告を上げる。
広大な玉座の間は、水を打ったような静寂に包まれた。居並ぶ帝国の重鎮や将軍たちは、誰一人としてその言葉を理解することができず、ただ口を半開きにして硬直している。
「馬鹿なことを言うな! 開戦からまだ半日も経っておらんのだぞ! 我が軍は三十万だ! たかがエルディスの辺境の砦一つ落とすのに、全滅などするはずがなかろう!」
皇帝が怒髪天を突く勢いで怒鳴り散らすが、伝令の震えは止まらない。
「砦の兵ではございません……! 戦場に突如として現れた、漆黒の外套を纏ったたった一人の男と、その配下と思われる一万の黒装束の軍団によって、我が軍は一方的に……!」
「たかが一万の軍勢に、帝国の正規軍が負けたと言うのか! ええい、使えん奴らめ! ガングレフの首を刎ねて……いや、すでに死んでおるのか」
皇帝は苛立たしげに爪を噛み、ギリッと歯ぎしりをした。
三十万の兵力を一瞬で失ったという事実は、帝国の軍事力の根幹がへし折られたことを意味する。だが、彼はまだ自分が絶対的な安全圏にいると錯覚していた。
「……まあよい。相手が何らかの禁呪を使った化け物であったとしても、この帝都には建国より伝わる無敵の防御陣がある。すぐに『絶対聖域』を展開しろ! いかなる魔法も物理的攻撃も通さない、あの光の壁があれば、化け物どもが帝都に侵入することなど絶対に不可能だ!」
皇帝の勅命により、帝都の地下に眠る巨大な魔力の脈流が引き上げられ、帝都全体を覆い尽くすほどの巨大な光の半球が展開された。かつて、伝説の古竜のブレスすらも無傷で弾き返したとされる、帝国が誇る絶対防御。
その光の壁を見上げ、皇帝は醜く歪んだ笑みを浮かべた。
「これで安心だ。エルディスの野蛮人どもがこの壁の前で立ち往生している間に、同盟国に援軍を要請し、一網打尽にしてくれるわ!」
その頃。帝都から少し離れた小高い丘の上に、空間が歪み、漆黒の外套を纏ったゼーレンが姿を現した。その隣には第一王女エレオノーラが寄り添い、背後には『幻影の天秤』の大幹部たちが静かに控えている。
彼らの眼下には、巨大な光の半球に守られた帝都の全景が広がっていた。
「……ほう。あの光の壁、どうやら古の神代の魔法陣を基盤にしているようですわね」
エレオノーラが扇で口元を覆い、感心したようにつぶやく。
「この大陸でも最高峰の結界魔法。大軍で何ヶ月攻撃し続けても、傷一つ作れないでしょう。ゼーレン様、いかがなさいますか? 大魔導士たちに命じて、術式の解析と破壊を行わせますか? 数日あれば、穴を開けることも可能かと存じますが」
「不要だ。あんな薄皮一枚に、数日もかける価値はない」
ゼーレンは退屈そうに首を鳴らすと、ゆっくりと丘を下り、帝都の正門へと向かって歩き出した。
巨大な光の壁の向こう側では、帝都の近衛兵たちが槍を構え、震えながらゼーレンたちを睨みつけている。彼らもまた、「この壁がある限り絶対に安全だ」と自分に言い聞かせ、必死に恐怖を押し殺していた。
ゼーレンは結界の目の前まで歩み寄ると、右手を軽く持ち上げ、人差し指でその眩い光の壁にトントン、と触れた。
「……脆いな」
たった一言。その声が響いた瞬間である。
――ピキッ、という、小さな亀裂音が鳴った。
帝国の近衛兵たちが息を呑む。古竜の攻撃すら弾いた絶対聖域の表面に、ゼーレンの指先から蜘蛛の巣状の巨大な亀裂が走ったのだ。
「な、ば、馬鹿な……っ!」
「ヒィィィッ!」
次の瞬間、まるで巨大な硝子細工が砕け散るかのようなおぞましい轟音と共に、帝都を覆っていた無敵の光の壁が、完全に粉々に砕け散り、光の粒子となって空へと消え去った。
一切の詠唱も魔力の行使もなく、ただ指で触れただけで、帝国が数百年信奉してきた絶対の盾が消滅したのである。
「あ、ああ……あぁぁぁっ……!」
正門を守っていた近衛兵たちは、完全に戦意を喪失し、武器を放り出して次々とその場にへたり込んだ。ある者は失禁し、ある者は神に祈るように泣き叫んでいる。
圧倒的すぎる力の差。もはやそれは、戦争という概念すら成立しない、神と虫ケラの対峙であった。
ゼーレンが一歩、帝都の石畳に足を踏み入れようとしたその時。
「――お待ちくださいませ、深淵の王よ」
パニックに陥る近衛兵たちの間を縫って、一人の少女が静かに進み出てきた。
夜空に輝く星屑を集めたような、美しい銀青色の髪。帝国で最も高貴な血筋を示す、純白のドレスに身を包んだその少女は、ガルディア帝国の第一皇女、アウローラであった。
彼女は帝国に代々伝わる『神託』の力を持つ聖女であったが、その力が強大すぎるあまり、皇帝からは政治の道具として幽閉され、忌み嫌われていた存在である。
「皇女殿下! いけません、お下がりください!」
近衛兵の悲鳴を意に介さず、アウローラはゼーレンの目の前まで歩み寄ると、ドレスの裾を優雅に広げ、冷たい石畳の上に深く、深く平伏した。
「私はガルディア帝国第一皇女、アウローラ。貴方様がお越しになることは、私の神託によってとうの昔に予見しておりました。世界を平定する、恐るべき漆黒の天秤がこの地に降臨されることを」
「……ほう」
ゼーレンは歩みを止め、足元にひれ伏す皇女を冷酷に見下ろした。
「ならば、その神託とやらは、貴様らがこれからどうなるかも告げていたはずだな」
「はい。我が愚かな父と、この腐敗した帝国は、今日この日をもって完全に滅び去ります」
アウローラは一切の迷いなく、自らの国と血族を切り捨てる言葉を口にした。
「私は、貴方様のような真の絶対者にお仕えすることだけを望んでおりました。どうか、このアウローラを貴方様の駒としてお使いください。帝国内の隠し通路、皇帝の首、すべてを私の手で貴方様の足元へ献上いたします」
その言葉に、背後で控えていたエレオノーラの眉がピクリと動いた。
「……随分と聞き分けの良い皇女殿下ですこと。ですが、泥棒猫が入り込む隙間など、ゼーレン様の隣にはありませんわよ」
エレオノーラが牽制の視線を向けるが、アウローラは顔を上げたまま、静かに微笑みを返した。
「勘違いなさらないでくださいませ、エルディスの王女殿下。私はゼーレン様の隣に立つなどという、おこがましい野心は持っておりません。私はただ、絶対者の足元で、その御影を踏むことすら恐れ多い一つの道具として、永遠に傅きたいだけなのです」
己の国を売り渡し、狂信的なまでの忠誠を誓う新たな皇女の出現。ゼーレンは二人の女の間に流れる火花に一切の興味を示すことなく、ただ淡々と帝都への歩みを進めた。
「案内しろ。玉座で震えている愚か者の首を、この手でもぎ取ってやる」
「はっ! 喜んで、我が絶対の主よ」
アウローラが恭しく立ち上がり、ゼーレンの半歩後ろへ付き従う。
遥か遠く、宮殿のバルコニーからその光景を望遠鏡で見ていた皇帝ヴァルデマールは、娘の裏切りと絶対聖域の崩壊という現実を前に、ついに完全に発狂したように泣き叫び始めた。
「あ、あぁぁぁっ! 何だあれは! なぜアウローラが奴らに傅いている! なぜ無敵の結界が砕けたのだ! 誰か、誰か奴らを止めろォォォッ!」
しかし、もはや皇帝の命に従う者など一人もいなかった。
一人の傲慢な女の裏切りから始まった、無能な入り婿の解放。それは今や、強大な帝国すらも一瞬で歴史の闇へと葬り去る、底なしの絶望と蹂躙のパレードへと変貌を遂げていたのである。




