第12話 深淵の玉座と永遠の泥濘
大陸の西の果て、『忘却の谷』における一方的な殲滅戦から数ヶ月後。かつてのエルディス王国とガルディア帝国、そして周辺の小国群は完全に一つの巨大な国家として統合されていた。
表の政治と裏の経済、そして圧倒的な暴力のすべてを単一の組織『幻影の天秤』が掌握する、歴史上類を見ない絶対支配体制の完成である。
その頂点に君臨する男の戴冠式が、旧帝都の白亜の宮殿で今まさに執り行われようとしていた。
一方で、そこから遠く離れた北方の極寒の地、『死の鉱山』。雪と泥にまみれ、凍傷で黒ずんだ手でツルハシを振るう奴隷たちの中に、かつて王国最強の魔法騎士団長と謳われたルクレツィアの姿があった。
過労と飢えによって彼女の頬はこけ、かつて燃えるような真紅のドレスを纏っていた美貌は見る影もない。ただ、首に嵌められた重い鉄の枷だけが、彼女が罪人であることを無慈悲に証明していた。
「……おい。そこの女」
岩陰で作業をしていたルクレツィアに、見回りの看守の目を盗んで一人の男が声をかけてきた。男は奴隷ではなく、ボロボロの外套を羽織った、帝国の残党を思わせる身なりだった。
「お前、かつてあの『幻影の天秤』の盟主の妻だった女だろう?」
「……それが、どうしたの……」
ルクレツィアは虚ろな目で男を見上げた。
「俺たちは、あの化け物に国を奪われた帝国軍の生き残りだ。あの男を殺し、国を取り戻す機会を窺っている。……お前なら、かつて寝食を共にしたお前なら、あの化け物の『弱点』を知っているはずだ」
男は周囲を警戒しながら、ルクレツィアの耳元で悪魔のように囁いた。
「俺たちにあの男の弱点を教えろ。そうすれば、お前をこの地獄から脱走させてやる。俺たちの国が元に戻れば、お前を新しい騎士団長として厚遇してやってもいい」
それは、まさに地獄の底に垂らされた『蜘蛛の糸』であった。かつてのルクレツィアであれば、その甘い言葉に飛びつき、「やっぱり私には価値があるのだ」と再び増長し、男を利用して這い上がろうとしただろう。
しかし、彼女の焦点の合わない瞳が、男の懐から見え隠れしている丸まった紙片――王都から流れてきた真新しい新聞の号外――を捉えた。
そこには、信じがたい見出しが踊っていた。
『天秤の盟主、古の邪神を単身で討伐! 全大陸を統一し、明日、初代皇帝として戴冠!』
「……邪神、討伐……」
ルクレツィアのひび割れた唇から、掠れた声が漏れた。
「ああ、そうだ。奴は西の果てで、神話の化け物すら指先一つで消し飛ばしたらしい。だからこそ、物理的な攻撃では勝てない。毒や呪い、あるいは精神的な隙……お前しか知らない弱点があるはずなんだ! さあ、言え!」
男が焦燥に駆られてルクレツィアの肩を揺さぶる。しかし、彼女の心の中に湧き上がったのは、復讐の炎でも、這い上がるための希望でもなかった。ただ、氷のように冷たく、底なしの『絶望と諦観』だけだった。
弱点。あのゼーレンに弱点などあるのだろうか。いや、そもそも自分は、彼という存在の表面すら理解していなかったではないか。
彼が魔物との戦いを裏で操っていたことも、騎士団の武具を整えていたことも、何も見えていなかった。自分が見ていたのは、彼が与えてくれた「天才魔法騎士団長のルクレツィア」という、美しく飾られた虚像だけだったのだ。
神すらも殺す絶対者。そんな次元の違う存在を、ただの「魔力が使えない無能な平民」だと見下し、苛立ち、己の手で家から追い出した。
自分は、太陽の眩しさも知らずに空を飛ぼうとした、ただの愚かな羽虫に過ぎなかったのだ。
「……弱点なんて、ないわ」
ルクレツィアは静かに男の手を振り払い、再び泥水の中に座り込んだ。
「なっ、嘘をつくな! お前、ここから抜け出したくないのか!?」
「抜け出して、どこへ行くというの。彼が支配するこの世界の、どこに私の居場所があるの」
ルクレツィアは重いツルハシを握り直し、岩肌に向き直った。
「私がおかしくなっていたのよ。最初から、私があの人の隣に立つ資格なんて、微塵もなかった。ただ、少しだけ夢を見させてもらっていただけ……」
ボロボロとこぼれ落ちる涙が、彼女の泥まみれの頬に一筋の線を描く。それは怒りでも悔しさでもなく、己の身の程を完全に理解した者が流す、永遠の後悔の涙であった。
「チッ、頭のいかれた女め! 勝手にここで死に腐れ!」
男は悪態をつき、慌てて岩陰から去っていった。ルクレツィアはもはや振り返ることなく、ただ無心にツルハシを振り下ろす。
――カーン、カーン 冷たい岩を打つ音が、吹雪の空に虚しく響く。彼女は死ぬまでこの地獄で、手の届かない玉座を見上げながら、決して戻らない日々の幻影を抱いて石を砕き続けるだろう。それこそが、彼女に与えられた真の清算であった。
同じ空の下、遥か遠くの帝都。数万人の群衆が歓声を上げる中、白亜の宮殿の大バルコニーに、漆黒の外套に身を包んだゼーレンが姿を現した。
彼の背後には、二人の絶世の美女が控えている。
一人は、表の政治を束ねる宰相として圧倒的な知略を振るう、エルディスの元第一王女エレオノーラ。もう一人は、教団の神殿として裏の粛清を司る、ガルディアの元第一皇女アウローラ。
二人の才女は、互いに冷たい視線を交わしながらも、ゼーレンの背中を見つめる時だけは、狂信的で熱烈な眼差しを隠そうとはしなかった。
「……ゼーレン様。世界は今、完全に貴方様の御手の中に」
エレオノーラが、うっとりとしたため息を漏らす。
「これより先は、我々が貴方様の退屈を永遠に癒やしてみせましょう」
アウローラが、恭しく頭を垂れる。バルコニーの眼下に広がる大広場には、『幻影の天秤』の精鋭たち、旧王国・帝国の騎士たち、そして数多の民衆が、地を這うように平伏していた。
魔力を持たない無能な平民。そう呼ばれ、侮蔑されていた男は、今や大陸全土の命運を握る唯一無二の絶対神となった。
「……世界を手に入れたところで、結局のところ退屈な箱庭が少しばかり大きくなったに過ぎんな」
ゼーレンは眼下の熱狂を冷たく見下ろしながら、退屈そうに首を鳴らした。しかし、その漆黒の瞳の奥には、新たな世界を己の思うがままに染め上げていくという、支配者としての冷徹な愉悦が確かに宿っていた。
天秤は傾き、旧き者は地に落ちた。深淵から這い上がった絶対者による、終わりのない覇道と無双の遊戯が、この新しい世界で幕を開けるのである。




