第11話 神殺しの妄執と深淵の蹂躙
地下神殿を揺るがす咆哮と共に、数百体の合成魔獣が漆黒の津波となって押し寄せる。
ライオンの頭部から灼熱の炎を吐き、蛇の尾が岩盤を砕き、猛禽の翼が突風を生み出す。一体一体が、かつてエルディス王国の天才魔法騎士団長ルクレツィアが単独では到底倒せなかった『地竜』に匹敵する、圧倒的な破壊の化身であった。
「行けぇぇぇっ! その黒いネズミどもを、一匹残らず食い殺せ!」
教団の司祭が、狂気に満ちた哄笑を上げる。彼の目には、魔獣の群れが『幻影の天秤』の精鋭たちを容易く蹂躙する未来しか見えていなかった。しかし、その哄笑は、続く数秒の間に完全に凍りつくこととなる。
「……これが、帝国から巻き上げた莫大な資金で作った最高傑作だと?」
先陣を切って魔獣の群れに突っ込んだ『幻影の天秤』の暗殺者が、冷ややかな声と共に双剣を振るった。
――ズバァァァンッ! 魔獣の強靭な外皮が、まるで薄紙のように切り裂かれる。炎を吐こうとしていたライオンの首が宙を舞い、蛇の尾が細切れになって床に散らばった。
「なっ……!?」
「遅い。脆い。そして何より、魔力の使い方が下劣極まりない。こんな張り子の虎で、我らが盟主様に挑もうとしたのか」
暗殺者だけではない。後方に控えていた天秤の魔導士たちが、一切の詠唱動作なしに杖を掲げる。
神殿の空間そのものが歪み、絶対零度の吹雪と、空間を焼き尽くす漆黒の炎が同時に魔獣の群れを襲った。
地竜クラスの合成魔獣たちが、断末魔の悲鳴を上げる間もなく、次々と氷の彫像と化し、その直後に黒炎によって灰すら残さず消滅していく。
一万の精鋭たちにとって、数百の魔獣の群れなど、単なる路傍の石を蹴り飛ばす程度の作業に過ぎなかったのだ。
「ば、馬鹿な……っ! あり得ない! あれは一体の製造に、小国家の国家予算に匹敵する金と素材を注ぎ込んだ、究極の生物兵器だぞ!」
教団の幹部たちが、顔面を蒼白にして後ずさる。自分たちが何年もかけて作り上げた無敵の軍団が、ものの数分でただのゴミ屑のように掃討されていく。その絶対的な力の差に、彼らの狂信は急速に絶望へと塗り替えられていった。
「どうした。貴様らの切り札は、この程度の玩具の寄せ集めか」
瓦礫の山の上で、ゼーレンは退屈そうに見下ろしていた。
彼自身の元には、まだ一匹の魔獣すら辿り着いていない。すべて、配下の精鋭たちが塵一つ残さず片付けてしまっているからだ。
「ヒィィッ……! 司祭様! このままでは全滅です! ここは一旦退いて……」
「退く場所など、どこにあると言うのだ!」
司祭は血走った目で幹部を怒鳴りつけ、懐から禍々しい紫色の光を放つ水晶玉を取り出した。
「こうなれば仕方がない……! 神殺しの計画のために用意していた、アレを起動させる! 幻影の天秤の盟主よ、貴様がどれほどの化け物だろうと、本物の『神の力』の前には跪くこととなるわ!」
司祭が水晶玉を床に叩きつけると、神殿の最奥の床が地響きと共に割れ、巨大な魔法陣が浮かび上がった。
そこから這い出してきたのは、先ほどの合成魔獣など比較にならないほど巨大で、おぞましい気配を放つ異形の怪物だった。
全身を覆うのは、漆黒の鱗。背中には無数の触手が蠢き、三つの巨大な眼球が濁った光を放っている。その姿は、かつて神話の時代に世界を滅ぼしかけたとされる、邪神の眷属そのものであった。
「ハハハハッ! 見よ、この美しき姿を! 古の邪神の細胞を培養し、現代に蘇らせた絶対の破壊神だ! 貴様が過去に受けた呪毒など、この神が放つ瘴気のほんの数滴に過ぎん!」
邪神の眷属が咆哮を上げると、神殿の空気が一瞬にして猛毒の瘴気に満たされた。
強靭な天秤の精鋭たちですら、その瘴気の濃密さにわずかに顔を顰め、後退を余儀なくされる。
「どうだ! 恐ろしいか! その瘴気を吸えば、どれほどの強者であろうと全身の血が沸騰して死に至る! 数年前、たった数滴の毒で死にかけた貴様なら、その苦しみがよくわかっているだろう!」
勝利を確信した司祭が、狂喜の叫びを上げる。
だが。
ゼーレンは瓦礫の上からゆっくりと立ち上がり、その猛毒の瘴気が渦巻く中へ、一切の躊躇いなく足を踏み入れた。
「盟主様!」
幹部たちの制止の声も聞かず、ゼーレンは邪神の眷属の真正面へと歩み寄る。
呼吸をするたびに、致死量の瘴気が彼の体内に取り込まれていく。しかし、ゼーレンの歩みは微塵も揺るがず、その表情には一片の苦痛すら浮かんでいなかった。
「……な、ぜだ……?」
司祭の顔から、再び笑みが剥げ落ちた。
「なぜ、生きて、歩いている……! 数年前は、その毒で瀕死になったはずだ! なぜ今、全く効いていないのだ!」
「……勘違いをしているようだな」
ゼーレンは邪神の眷属を見上げながら、ひどく冷酷な声で告げた。
「数年前、私が貴様らの毒を受けたのは、単なる『不注意』だ。そして、あの傲慢な女の看病を受け、治癒したわけではない。私の体が、あの程度の毒を自ら分解し、すでに『抗体』を作り出していたから生き延びただけのこと」
「こ、抗体、だと……? 神の呪毒を、ただの人間の体が克服したというのか!」
「ああ。つまり、貴様らが何年もの歳月をかけて育て上げたこの『神の力』とやらは……今の私にとっては、ただの不快なカビの臭いと何ら変わりないということだ」
ゼーレンが右手を軽く持ち上げる。
「ギィィャャァァァッ!」
邪神の眷属が、目前の脅威を排除しようと、無数の触手をゼーレンに向かって突き刺してきた。しかし、ゼーレンは避けることすらしない。
ただ、指先を軽く鳴らした。
――パチン その小さな音が響いた瞬間、巨大な邪神の眷属の体が、内側から膨張し、次の瞬間にまるで血風船のように無惨に破裂した。
肉片と黒い血が神殿中に降り注ぎ、致死量の瘴気は、ゼーレンが放った目に見えない圧倒的な覇気によって、一瞬にして浄化され、消え去った。
「あ……あ……ぁ……」
司祭は、降り注ぐ神の血を浴びながら、完全に発狂したように膝から崩れ落ちた。自分たちのすべての研究、狂信、神と崇めた力。それが、たった一人の男の指鳴らし一つで、何の意味もなく消し飛んだのだ。
もはや、そこにあるのは戦いではなく、神が虫を潰すだけの無慈悲な作業だった。
「さて、残りの掃除を終わらせようか。冥星のネズミども」
ゼーレンの漆黒の瞳が、絶望に凍りつく教団の幹部たちを捉えた。
その圧倒的な蹂躙劇を、天井の開いた穴の縁から見下ろしていた二人の女性がいた。
第一王女エレオノーラと、帝国の第一皇女アウローラである。
「……ああ、なんと美しく、恐ろしい御方なのでしょう」
アウローラが、頬を染めて恍惚としたため息を漏らす。
「私が神託で見た絶望など、あの御方の足元にも及びません。あの御方こそが、真の神……」
「当たり前ですわ。私のゼーレン様を、あのような薄汚い教団のガラクタと一緒にしないでいただきたい」
エレオノーラは扇を優雅に翻し、冷ややかに言い放つ。
「貴女の帝国が裏でコソコソと育てていた教団など、我が主の前ではただの余興に過ぎません。さあ、私たちが手を出して、あの御方の遊興の邪魔をする必要はありませんわね。私たちはただ、あの御方が世界を平定し、真の玉座にお座りになるのを、特等席で見守るだけです」
二人の才女は、互いに冷たい視線を交わしながらも、眼下で繰り広げられる血と絶望の惨劇から目を離すことはできなかった。
数年間、一人の女の「恩返し」という箱庭に縛られていた深淵の王。彼が真の鎖を解き放ち、世界を蹂躙する覇道は、今、その因縁の敵を完全に滅ぼすことで、一つの明確な頂点を迎えようとしていたのである。




