番外編:見えざる手と静かなる贖罪
統合帝国『幻影の天秤』の首都となった、旧ガルディア帝都。その中枢に位置する白亜の宮殿、かつて皇帝の私室であった広大な執務室で、世界の絶対的支配者であるゼーレンは、退屈そうに報告書へ目を通していた。
広大なデスクの前に音もなく傅いているのは、組織の隠密部隊の長である。
「――以上が、旧帝国の残党軍による反乱計画の全容となります。首謀者および賛同者はすべて特定済み。明朝までに、一人の例外もなく首を刎ねておきます」
「大儀だ。ゴミの掃除は静かに終わらせろ」
ゼーレンが羽ペンを置くと、傍らに控えていた第一王女エレオノーラが、冷ややかに微笑んだ。
「愚かなネズミどもですね。ゼーレン様の『目』が、この世界の隅々――路地裏の泥水の中から、貴族の寝室のベッドの下まで、すべてを掌握しているとも知らずに。反逆を企てた瞬間から、彼らの命の天秤は死へと傾いているというのに」
エレオノーラの言葉通り、ゼーレンの情報網はもはや人間の理解を超えた領域に達していた。物理的な隠密部隊の配置に加え、旧教団の遺物である遠隔透視の魔導具、さらにはアウローラの神託の力までをも完全に統合したそのシステムは、大陸全土のあらゆる会話と事象を、ゼーレンの耳元へ直接届けることが可能であった。
「それで? 報告書には、もう一つ奇妙な記述があったな」
ゼーレンは冷酷な瞳で隠密の長を見下ろした。
「……はっ。残党軍の一人が、死の鉱山に潜入し、強制労働中の罪人……ルクレツィアに接触を図りました。彼女の持つ盟主様の『弱点』を聞き出し、見返りとして救出を提案したようです」
ルクレツィアの名が出た瞬間、エレオノーラの眉が微かに不快そうに動いた。
「……それで、あの愚かな女はどう答えたのです?」
「提案を完全に拒絶いたしました。『弱点などない』『自分には隣に立つ資格などなかった』と。その後、残党は彼女を見限り、立ち去っております」
報告を聞き、ゼーレンは無表情のまま窓の外へ視線を向けた。かつて、底なしの虚栄心と傲慢さで己を飾り立て、神すらも殺す自分を「無能」と見下して追放した女。その女が、地獄の底に垂らされた蜘蛛の糸を自ら断ち切り、這い上がることを諦めたという。
「……どうやら、あの見え透いた張り子の殻は、完全に砕け散ったようだな」
ゼーレンは小さく、本当にわずかにだけ息を吐いた。
「ゼーレン様。いかがなさいますか? いくら心を入れ替えたとはいえ、反逆者と接触したことには変わりありません。見せしめとして、ただちに処断いたしましょうか?」
エレオノーラの進言に対し、ゼーレンはゆっくりと首を横に振った。
「いや。死の鉱山には、すでに彼女の『罪』に見合うだけの絶望を支払わせた。殻の破れた抜け殻を、いつまでも私の視界の隅に置いておく価値すらない」
ゼーレンは引き出しから一枚の羊皮紙を取り出し、流れるような筆致で署名を記した。
「彼女を死の鉱山から解放しろ。そして、首の枷を外し、魔力も自由にしてやれ。その上で、帝都から最も遠い南の辺境……名もなき農村へ送るんだ。監視は続けるが、干渉はするな。彼女の存在は、今日この日をもって完全に『死んだ』ものとする」
「魔力を解放なさるのですか?」
エレオノーラがわずかに目を丸くした。
「また力を得れば、再び我々に牙を剥くやもしれませんわ」
「もはや彼女に、振り上げるべき牙も、すがりつく虚栄心も残っていないだろう。それに――万が一向かってきたところで、今の私に届くはずもない」
「……御心のままに」
隠密の長が影に溶けるように消え去る。絶対的な支配者から下されたのは、慈悲なのか、それとも完全な無関心なのか。ゼーレン自身にも、もはやそれはどうでもいいことだった。
彼の目線はすでに、かつてのちっぽけな箱庭から、はるか先の広大な世界へと向いていたのだから。
それから、三年の月日が流れた。
大陸の南の果てに位置する、地図にも載っていない小さな農村。そこは、世界を統べる『幻影の天秤』の威光も、かつての戦争の傷跡も届かない、時が止まったかのような平穏な場所だった。
照りつける初夏の日差しの中、麦畑で一人の女が静かに杖を振るっていた。
「恵みの雨を。水流の矢」
彼女が短く詠唱すると、杖の先から放たれた柔らかな水の球が空中で弾け、乾いた畑の土にまんべんなく優しい雨を降らせていく。かつては敵を穿つために使われていた攻撃魔法が、緻密な魔力操作によって完璧な水やりの魔法へと転用されていた。
「おーい、ルル! 今日も助かるよ! あんたが来てから、うちの村は三年連続で大豊作だ!」
隣の畑から、日焼けした老農夫が笑顔で声をかける。
「ふふっ、お安い御用です。お世話になっているせめてもの恩返しですから」
『ルル』と呼ばれた女――かつて王国最強の魔法騎士団長と謳われたルクレツィアは、額の汗を粗末な手ぬぐいで拭い、穏やかな笑みを浮かべて頷いた。
彼女が身に纏っているのは、泥にまみれた麻の作業着だ。かつて金糸のように輝いていた髪は短く切り揃えられ、透き通るようだった白い肌は、太陽の光を浴びて健康的な小麦色に焼けている。
そして何より、あの他者を見下すような傲慢で冷酷な眼差しは、もうどこにもなかった。
死の鉱山から突如として連れ出され、罪人の枷を外された上でこの村に放り出された時、彼女は自分が殺されるのだと思っていた。しかし、村人たちは行き倒れ同然だった彼女を温かく迎え入れ、畑の一角と小さな小屋を与えてくれた。
「そういえばルル、昨日の夜はありがとうな。森から迷い出た魔猪の群れを、一人で追い払ってくれたんだって? 村の若い衆が、あんたの炎の魔法を見て腰を抜かしてたぞ。まさに村の守り神だな!」
「大袈裟ですよ。ただの脅しです。怪我人が出なくて本当に良かった」
ルクレツィアは少し照れたように笑い、木陰に腰を下ろした。
老農夫の妻が焼いてくれた、固い黒パンと冷たい井戸水で喉を潤す。かつて王宮の夜会で口にしていた、とろけるような幻の食材や最高級のワインとは比べ物にならないほど質素な味だ。しかし、自分の手で土を耕し、村の人々を守った後に食べるこのパンの味を、今の彼女は「美味しい」と心から感じることができた。
かつての彼女は、「王国最強」という虚栄の肩書きを守るためだけに魔法を使っていた。自分を飾り立て、他者を見下すための道具として。だが、枷を外され、本当の意味で自由になった今。彼女の魔法は、目の前で笑いかけてくれる村人たちの生活を助け、小さな命を脅威から守るためだけに使われていた。
「……そういえばルル。昨日、行商人が村に来て、王都の新しい新聞を置いていったんだがな」
老農夫が、煙管に火をつけながらぽつりとこぼした。
「なんでも、今の『皇帝様』はすごいお方らしいな。大陸中の飢饉を魔法でなくして、盗賊どもを根こそぎ退治して回ってるそうだ。俺たちみたいな辺境の村にまで、新しい農具の配給が来るって話だぜ。まさに神様みたいな人だな」
「……ええ。本当に、偉大で、恐ろしいお方です」
ルクレツィアは、自分の日焼けした手を見つめながら、静かに微笑んだ。
ゼーレン。かつて自分が「無能な寄生虫」と呼び、屋敷から追い出した元夫。彼は今、この世界のすべてを掌握する絶対の玉座に座り、神の如き力で大陸のすべてを守り、導いている。彼の『目』は、今こうして自分がパンをかじっている姿さえも、どこかで見下ろしているのかもしれない。
彼が背負っているのは「世界」という巨大すぎる天秤だ。傲慢だった自分には、あの玉座の隣に立つ資格はおろか、その重さを理解することすらできなかった。
自分が手放したものの大きさと、己の愚かさに対する後悔は、三年の月日が流れた今でも、時折胸の奥を締め付ける。けれど、もう発狂することはない。
「皇帝様、か……。一度でいいから、その御尊顔を拝んでみたいもんだな」
「……とても冷たくて、底なしの深淵のような瞳をした方ですよ。でも、その奥には……誰よりも確かな『強さ』がありました」
「おや、ルル。まるでお会いしたことがあるような口ぶりだな」
老農夫がからかうように笑うと、ルクレツィアは少しだけ困ったように目を伏せ、首を横に振った。
「まさか。私のような泥にまみれた女が、あのような尊いお方にお会いできるはずがありません。ただの、想像です」
ルクレツィアは立ち上がり、はるか北の空――帝都のある方角を見上げた。
広大な青空は、どこまでも高く、澄み切っている。私はもう、二度と貴方の視界に入ることはない。貴方は、その絶世の力で世界を守り続けてください。
私は、貴方が私から枷を外し、もう一度信じて残してくれたこの小さな魔法で――この手の届く範囲の、小さな村の笑顔だけは、命を懸けて守り抜いてみせます。もし、世界のすべてを知る貴方の耳にこの声が届くのなら。
『――ごめんなさい。そして、私にこの土の温もりを教えてくれて、ありがとう』
ルクレツィアは、心の中で誰にも聞こえない感謝と、新たな誓いを紡いだ。
吹き抜ける初夏の風が、彼女の短い髪を優しく揺らす。
絶対的な力で世界を統べる深淵の玉座。そして、その玉座から最も遠い場所で、一人の女が見つけた静かなる贖罪。交わることのない二つの道は、それぞれの形で、誰かを守りながら確かな未来へと続いていくのであった。




