第五話 味わい『肴』
「森岡さんはお酒はいらない?」
吉川は燗した徳利から滴るお湯を布巾で拭きながらお盆に置いた。
徳利の頭からはほんわかと湯気が立っている。
「どうしようかなあ。飲むつもりは無かったんだけど、聞かれちゃうと飲みたくなるなあ」
「ははは。それは悪い事しちゃったね」
吉川は笑いながら、お盆を洋子に渡す。
徳利と猪口の乗ったお盆を彼女は奥の席に運んでいった。
「そしたら辛口の何かもらえますか?」
「はいよ!」
浩二は普段あまり酒は飲まない。
ましてや一人で飲むという事はあまり無い。
しかし、今日は何だか気分がいい。
最高の寿司とうまい酒、気のいい店主。
心の奥がほっこりするような居心地のよさに包まれて、浩二は日本酒を頂く事にした。
「辛口ねえ。麒麟山とかどうだい?」
「それおいしいんですか?」
「そりゃもう。米所新潟の清酒だからね」
麒麟山は新潟と福島の県境である阿賀町の酒蔵、麒麟山酒造のお酒である。
冬は豪雪、夏は強い日差し。
その厳しい自然環境が育んだ地酒は、キリッとした爽快な味わいで、辛口に一貫してこだわった職人達のこだわりが感じられる、そんな酒だ。
「はいよ」
焦げ茶色の一合徳利と、それに合う猪口を浩二の前に置かれた。
先ほど奥の方に持っていかれた酒は燗してあったので、何となく浩二は聞いてみた。
「これは燗しないんですか?」
その質問を受けて、吉川は嬉しそうに笑った。
「辛口はね、燗しちゃ良くないのよ」
「あ、そうなんですか?」
「辛口は冷酒か常温、この酒だったら常温がオススメだね」
「へえ、普段あまりお酒飲まないんで勉強になるなぁ」
浩二は一つお酒について学んだなと思いながら、手酌で猪口に酒を注ぐ。
透明な酒はちょろりと音を立てながら猪口に落ちていく。
「はい、おまち!」
今まさに飲もうとしたタイミングで、小鉢が浩二の前に置かれる。
塩辛だ。
赤茶の肝に半透明な烏賊の身が絡んでいる。
「おお、塩辛」
「この酒と凄く合うんだよ。食べてみて」
大好物の登場に心の中でガッツポーズをした。
早速、浩二は箸で肝の中から烏賊の身を掬い上げる。
とろっとした濃厚な肝はしっかりと烏賊の身に絡み付き、烏賊肝特有の香ばしさが鼻孔をくすぐる。
市販の塩辛とは違い、烏賊の身は結構細く碾かれている。
しかし、塩辛にしてはやや大盛りのようにも見える。
「あまり塩っからくないから、ペロンといけちゃうよ」
「そうなんですか。いただきます」
浩二は掬い取った烏賊の身を口に運んだ。
口の中に広がるのは、烏賊肝の芳醇且つ濃厚な香り。
だが、その香りと相反して一口噛むと舌の上にしつこすぎない、爽やかな風味が広がった。
それが細切りにされた烏賊の身の甘みと混ざり合い、今まで食べた事の無いような味わいになる。
「うっま!」
「ははは! そりゃよかった」
確かに吉川の言った通り、市販の塩辛のように塩気が強くない。
それどころか、このままバクバクと食べれるような味だ。
まさに一品料理である。
「初めての味ですね。確かに塩辛なんですけど、なんか……なんだろう?」
「これはね、なんちゃって塩辛だね」
塩辛とは、烏賊の身が肝の中に含まれる消化酵素によってアミノ酸を生成しながら発酵して完成する。
しかし、この吉川の出した塩辛は発酵するほど漬け込んでいない。
仕込みは前日、発酵とまではいかないが、肝が身に染み込むには十分な時間である。
それにほんの少しの塩と醤油を加え、少しだけごま油を加え香ばしさを引き立てる。
あくまで塩分は控えめ。
仕上げに柚の皮を混ぜて一晩置く事で、香ばしさと濃厚さの中にさっぱりとした風味が生まれるのだ。
「これ、ご飯にかけて食いたいですね」
烏賊の風味が尾を引いたまま、浩二は猪口をクイッと仰いだ。
日本酒のキリッとした辛みが、口の中の烏賊の風味を殺す事無く豊かな旨味に変えていく。
それに辛みの中に隠れている麹の香りが鼻からスッと抜け、口と鼻の両方で爽快感を享受できる。
「これ、合いますね」
「でしょう? これなら塩辛苦手な洋子ちゃんでもいけちゃうんだよ」
吉川と浩二はカウンター越しに、談笑しながらお酒と烏賊をゆっくりと頂く。
小鉢が空になる頃には、浩二の顔も若干赤めいていた。
美味しい寿司に、吉川の創意工夫が凝らされたつまみ、そして美味い酒が、ただの日常を和やかで気持ちのいいひとときに変えていく。
浩二はあまりの居心地のよさに、ずっと居座りたくなった。
しかし、そろそろお腹もふくれて来た。
量こそ食べてはいないが、ゆっくりと話をしながら食べているのでいい感じである。
それに、そもそも浩二がここを訪れる理由は、ただ腹一杯食べる為ではない。
豊かな食事の時間を過ごす為だ。
浩二はチラッと腕時計を見てから、最後に猪口に残った酒を一気に仰いだ。
遅れまして申し訳ございません。