平手打ち
じきに、退却してきた兵たちは秩序を取り戻した。都の人々は荷車に積んだ財をおき、身一つで入城した。
城門はとざされ、都はしんとしずまりかえった。
ワヌ・シンの姉妹たちは、てきぱきと指示を出し、傷を負ったものにはすみやかに手当を受けさせた。
大臣のおじさんたちの反対を無視して、アッタさんは穀倉を解放した。王宮の料理人たちも、ひたいに汗をかいて、大鍋をかきまぜてた。
逃げ込んできた人たち。疲れ切った人たちの顔も、あたたかい汁でいくらかほぐれたって。
石を高く積み重ね、王宮をぐるりと包囲する頑丈な正門は、砦みたいだ。夕暮れに空が染まってからしばらくがたつ。
いくつもの篝火に巨大な門はぼうっと照らし出されていた。
この向こうに、荼の軍がいる。
そう思うと、すごくこわい。
こわくない、平気だって。
思える人がいたら、すごい。
クム・セナお姉さんは敵を前にして、逃げることなんて許されなかった。逃げたいと、願ったことがあったかな?
王座のある大広間。会議中。
汗とあぶらで顔がぐちゃぐちゃのおじさんが、顔を真っ赤にして叫んだ。ワヌ・シンを連れ帰ってきた人だ。
鎧のにおいかな。金物っぽい血のにおいがする。
それでも、じきに慣れちゃった。
「老安砦に出た軍を呼び戻し、王城を守らせるべきです」
ハナさんが行ったとこだね。
川を越えてくるニ千の軍を迎え撃つって言ってた。
「幸い、今は二老川の流れもはやい。敵は渡ってくるだけで消耗するでしょう。アッタル様、どうぞご決断を。いますぐ早馬を送らねば、王城は落ち、都は敵の手に。手遅れになりまする」
アッタさんは、射抜くような目で見返した。
「砦を明け渡すことになります」
北の守りを失うわけにはいかないって。
なら、どうすればいいの?
私ができること。
いっこある。
手元の小さな酒壷、結納のお酒だ。
これを飲ませたら、目が覚めるって。なら、飲ませればいい。
丘に松明の明かりがぽっと点った。
一つだけじゃない。
波のようにうねる明かりが見える。
いつ来るのか。
来たとして、どうなるの?
防ぎきれないっていうムード。
戦える人がどれだけいるのかって。
そもそも、数では負けてるところ、大軍を峠の細い道に誘い込むために、ワヌ・シンが陣頭に立って荼の主勢をおびきよせた。
なんとかホイホイだ。
ところが、思いもしないところから矢が飛んできたって。
どこよ。
「味方の矢に射られたなどと、おおやけにするおつもりですか」
や、なんですって。
聞き捨てなりません。
ワヌ・シンの様子を見に来たんだけど、その途中、こそこそ話が聞こえた。曲がり角、太い柱が立ってて、ちょうど死角になったあたり。
ワヌ・シンの六番目だかの妹、カンヘさんの姿が見える。
そばにいるのは、大臣のおじさん。
北の砦にいる兵を呼び戻せって必死に言ってた人たちを、まあまあ、なんてなだめてた人。
「伯父うえ、黙っていろと仰せなのですか。このような由々しきことを」
カンヘさんがいつもの無表情で言った。
「ただ、カンヘ様は黙っておられればよいのです」
伯父さんなんだね。
この子、何を考えてるかよくわかんないんだよなあ。
自分のことを話さないし、ほかの姉妹たちから一歩距離を置いてる感じがする。
「弓隊は斜面に身を隠し、敵のくるのを待ちかまえていたと。しかし、弓隊の長が号令をかける前に、王様の率いた人馬に矢の雨がふりそそいだと。そのとおりですね?」
カンヘさん、すっごくおちついた声だね。
これって、王様を裏切った人間がいるって言ってるんだよね?
ぼうっと灯籠のあかりが揺れた。
白い横顔がすこしだけこわばった。
「伯父上。三兄上をなぜたきつけたのです」
ワヌ・シンには十二人の姉妹と、十四人の兄弟がいるんだったよね。
「ここまでなさるなど。信じられぬ」
カンヘさんと三番目のお兄さん、どういう関係?
「同母の兄上のこと、さぞかし気にかかるでしょう。ご安心を、カンヘ様。弓隊の長は口をつぐむことを選ぶでしょう。第三王子が王位につけば、この国も安泰。なにしろお二人の母上は荼の王族。手に手を取って、よい国づくりができましょう」
「もう、たくさんだ」
カンヘさん、冷たい声で言った。
「恥知らずな振る舞いです。卑怯な者が王になったとて、民が認めるでしょうか? わたしは、認めぬ。決して、許さぬ」
震える声だった。
「シン兄様はすぐにお目覚めになられます。さすれば、三兄上の出る幕はない」
「お目覚めに、なられるかどうか」
ちょっと、おじさん。
何言っちゃってるんですか。
すぐ目が覚めますよ。
このお酒、飲ませるつもりですからね。
竜の爪のアカは、滋養強壮とか眼精疲労とか、とにかくすっごくきくんだから。
「春蘭君にお任せしましたので」
うん。誰だって?
カンヘさん、はっとしたみたいに、走りだそうとする。
そこをおじさんが腕をつかんで引き留めた。
「はなしなさい!」
おじさん、カンへさんを乱暴に柱に押しつけた。
「眠ったまま。お亡くなりになられるのですよ」
はああ? ワヌ・シンを殺すつもり。
「よいですな」
もう、おじさん、ふざけるのはよしてください。
頭おかしんじゃないかな。
「カンヘ様。行って、どうなさいます。兄上がなさったことを、大声で叫びますか。兄君と、われら一族をお見捨てになられるのですか。異国の地で、肩身も狭く辛酸をなめてきたのです。努力がようやく実を結ぶのを、ほかならぬカンヘ様が邪魔なさると?」
鼻で笑う。やな感じ。あーやな感じ。
「戦場で死ねばよかったものを、手間のかかるお方だ」
かっとアタマに血がのぼる。
いくらいけすかない王サマだって、殺さなくたっていいじゃない。
ワヌ・シンはたしかにいやなやつ。
自信たっぷりで、身勝手で。
でも、そんなにひどかぁない。
「もう間に合いません。ここに、静かにおいでなさい」
「ちょっと」
私はおじさんの肩をつっついた。
びっくりした顔で、おじさん振り返りました。
ふんっ!
ちょっと、ぱあんと平手打ちしてやった。
そしたら、ありえないでしょってくらい、吹っ飛んじゃった。
「あ、ちょっと、強すぎました、ね」
尻もちをついたカンヘさん。目をまん丸にして見上げてきた。
怖かったんだね、かわいそう。震えてる。百メートル全力疾走したみたいに、肩で息してる。
「大丈夫、立てます?」
手を差し出すと、真っ青な顔で口をつぐんだ。
「お聞きになられましたか」
はい。だいたいのところは。
かわいい顔が、くしゃっとなった。
涙がこぼれる。
「わたしの足では間に合いません。どうか、春蘭君を、ヨンチュ叔母上を止めてください」




