すき、の文字。
「すきって、読めますね」
「す、き?」
アンさん、目をぱちぱちさせた。
「お慕いする気持ち、ということでしょうか」
そうだと、思います。
アッカンべーと、隠された「すき」の文字。
これは。
ツンデレ絵としか。
「だれが書いたんですかね?」
つぶやくと、アンさんは言った。
「図画院の者が描いたのでしょう」
絵を描く部署があるんですか。
絵のはじっこに、署名があるね。
「ハン・イル。とあります」
その人が、描いたってこと?
一コマめ。
いっぱいに開け放した窓から、一本の木が見える。
花もなにもついてない。
けど、枝に一羽の鳥がとまっている。
二コマめ。
ポン、と音がする。
今まで目立たなかったつぼみが開いた。
三コマめ。
それを合図に、ぽんぽん、ぽぽん! と花が開き、いつの間にやら満開になった。
天井からつり下げられたおっきな紙が、風に揺れた。
そこに描かれた季節のひとめぐり。
「へえ」
一画面に、いくつかの場面が詰まってる。枯れ木に花が咲いて、そして散るまで。
「マンガのコマ割りみたい」
私がつぶやくと、腕組みしていた人は、うなずいた。
「自由に時間を追っていくことができますよね。現在から、未来へ。見る者は、すきな時を望めるのです。その反対も可能だ。まさに画期的手法です」
画期的。ワヌ・シンと同じことを言う。
紙が顔にくっつきそうになるくらい近く。
立ったまま、天井からつるした紙に絵を描くって、難しそうだけど。
花びらが落ちるひとひらを丁寧にかきつけていた人は、いきなり振り向いた。
「たっ!」
た?
「びっくりし、ました」
ずりさがったメガネを直しながら、そう言った。
「あの、画員長さんはいらっしやいますか」
しんとした部屋の内には、ほかには誰もいない。
沈黙。
外のざわめきもここまでは届かない。
別世界って感じですね。
なんかのんびりしてるな。
鳥の鳴き声がときどき聞こえるくらいだ。
「画員長は、わたしですが、何かご用でしょうか」
鼻の頭を指先でかきながら、男の人はようやくそう言った。
アンさんは咳払いをした。
「秘苑の、空魚斎に飾られている、人物を描いた者を探しておる」
おずおずと、その人はうなずいた。
「秘苑の画は我が師匠が描かれたもの。数年前に亡くなりました。残念ですが」
亡くなったんだ。
「失礼」
筆を置き、ハンさんはあくびをして、そのあと背伸びをした。
「夕べからずっと描いていたもので」
ずっと?
戦いが始まろうっていうのに。
メガネのずり落ちたのを親指のつけ根でもちあげた。
それから、こっちをやっと見た。
「申し遅れました。わたしの名は、ハン・チルウ。ハン・イルはわたしの父です」
息子さんですか。
あの絵について、何か知ってたら教えて欲しいんだけど。
「はて。どこかで」
私が頭を下げると、メガネ越しにじいっとみつめられた。
「舌を出してくださいませんか」
舌、ですか?
はい。
「いけません」
アンさんがあわてた声で止めたけど、もう遅い。
あっかんべーですね。
「サト様のお身内であられますか。顔の輪郭、目鼻立ち、舌先の形。よく覚えております。もう三十年前のこと。チルウ、チルウ、と。サト様にはたいそう目をかけていただきました」
ほんとですか。
「ふつうというものを、寧王様はお許しになりませんでした」
「ねい?」
「おじいさま、先々代の王様の謚です」
アンさんが、教えてくれた。
「美しいのはあたりまえである。その奥に隠されたものを描けと」
おじいさん、無茶振りするなあ。
「サト、様と寧王様、お二人は、どういう関係だったんですか」
恋人でもない、他人でもない。
秘苑をつくって、プレゼントするくらい、すきだったんだよねえ? でも、サトおばあさんが出て行く、っていったら、はいさよなら~ってあっさり見送ったって。
全力で止めません? ふつう。
「むつまじく語り合うところなど、見たことがありません。それどころか、「よそを訪ねろ」と、玉体をけ飛ばす姿なら拝見したことがございます」
おかしいでしょ。サトおばあさん、相手は王様ですよ。
蹴っちゃいけませんよ。
「人の縁というものは、不思議なものです」
ハン・チルウさんは、あらたな料紙をもってきて、卓のうえにひろげた。色皿にひたした筆先を、ぽつと紙におく。すると、にじんでひろがった赤が夕日のようにみえた。
「あれは、夕暮れのころでした。よく覚えています、気を失ったサト様を背負って、寧王様が我が家を訪ねてこられました。家は都の外にございました。山の中です。王様は狩りのさなか、倒れた女人を見つけたのだそうです」
見たことのない美女、サトを連れ帰り、客人として迎えたということらしい。
「どうして山の中にいたのかな」
儷から厦までは結構な距離がある。
「天女が空から落ちてきたようだった、そう聞いております」
なーんか、あやしい。
どっかの天帝さんが一枚噛んでんじゃないのかな、これ。
「去られるときも、まるで、霞のようにかき消えてしまわれたそうです」
ちょっと待った。
「出て行ったって聞いてますけど」
「ええ、ですから、いなくなられたのです」
出て行った、といなくなったって、同じ意味だけど、結構ちがうんじゃない?
「寧王は、サト様を国中探させたそうです。儷にいると聞いたあとは、力づくで取り戻そうとなさいました」
人をスゴロクのコマみたいにあっちこっちへ動かせるのは、あの人しかいない。もし。サトおばあさんの意思なんて関係なく、連れ去られたとしたら?
ほんとはずっとそばにいたかったと、そう思ってたとしたら?
すごく、かわいそうだよ。
「お二人は、ご友人でした」
涼しげなハンさんの顔がかすかにゆがんだ。
「子どものわたしに、サト様がいつか打ち明けてくださったことがあります。思い通りにならないことを、思い通りにしようと願った。それが、ゆがみのもとだと。好きなお方に好きといえないまま消えてなくなるのが、せめてもの罪滅ぼしだと」
ど、どういうこと?
サトおばあさんは、ワヌ・シンのおじいさんが好きだったの?
「おそれながら、その通りだと存じます」
ハン・チルウさんはつぶやくように言った。
「女人は、好いた男にしか舌を見せぬものですから」
すき、の文字。
隠された想いは伝わってたの、それとも。




