好きな女とたった一度寝て、それで捨てられ、満足だって。
目を閉じていても、思い出せる。
先のとがった飴色の沓の底が、石畳をする音。
その歩き方。沓音を聞けば、誰かはすぐにわかった。
片足を引きずるように、爺さまはお歩きになったものだ。
いつかの戦いで、おみ足を痛められたのだという。
「シンか」
しわがれた、けれども凛としたお声だった。
「秘苑に遊ぶは、鯉とそなたぐらいのものだな」
離宮には、たくさんの樹木が植えられていた。その多くは、実をつける果樹だ。
冬には、すっぱい蜜柑がなる。秋には、小さいが甘い桃がなる。
夏にはびわ。木いちごをつんで食べたとき口が血まみれのようになっているのに気づかず、女官が驚いて卒倒しそうになったこともあった。
今思い出すと、笑える。
住まいのほうは何かと騒がしく、おれの不勉強に目くじらをたてる教師をまいたあとは、時をついやすのに格好の場所だった。
ほかには誰もいなかった。
おれは、蓮の花の浮いた静かな池で釣りをするのが好きだった。
朝から夕までそこにいた。
めったに人が近づかない忘れ去られた離宮のことを、爺さまは秘苑と呼んだ。
情けというものは、ときに国を滅ぼすことがある。
爺さまが造ったこの秘苑を、父上は毛嫌いしていた。
なぜか。
それは、爺さまが儷国のサトなる妖魔に骨抜きにされ、いいように手玉に取られ、結局は捨てられた、その哀れな恋の残骸だったからだ。
おれは、よく知らぬ。
ことの顛末は国中でいろいろな物語や歌になり、おもしろおかしく、ときにお涙ちょうだいの悲恋として描かれたりして、様々に伝わっている。
そのどれもに共通しているのは、爺さまがサトに心底惚れ込んで、何度断られても求婚し続け、ほんの一度だけ、情けをかけてもらったという、まあじつにみっともない話だ。
たった一度。
よっぽど、よかったのか?
一度寝ただけで、王の寝殿にも匹敵する広大な秘苑をくれてやった、というのもどうかという話だ。
しかも、サトはほんのちょっと秘苑にとどまったあと、何の未練もなく、爺さまを捨てたのだ。
「腹が立たぬのですか」
孫であるおれしか、そのようなことは聞けなかっただろう。
すると、爺さまはまじめな顔をして言った。
「サトがすることなら、すべて許せる」
あきれた。
それで、聞かなかったことにした。
サトがどれほど美しいっていうんだ。
秘苑には、図画が飾られていた。
柳の木に手をふれて、すっと立った女人の絵姿。
はじめてみたとき、おれは首を傾げてしまった。
顔をしかめて、そのうえ、舌を出してる。
爺さまがほれたのが、こんな女人だなんて、信じられなかった。
後宮には、もっと美しい女たちがいる。
にっこりとほほえんで、やさしく抱きしめてくれる。
「サトは、自分の美しさを持て余し、困っておった。そこが、たまらなくわたしを引きつけたのだ」
拍子抜けしてしまった。そんなことかと。
「妖魔の手管では?」
爺さまは笑った。
「生まれつき美しい女は、それが当然と思う。うまれつき身分が高ければ、それが当然と思う。違うか」
異論はなかった。
おれは王族として生まれた。食うには困らぬが、果たすべき責任がある。生まれもつものは、人それぞれちがう。
「身の丈に合わぬ衣を着込んでいれば、目立つ。それに、不格好だ。しかし、サトは美しかった。ただ美しいのではない、すさみ、憎み、金に人並みならぬ執着を持っておった。それが、おもしろく、眺めているうちに夢中に引き込まれた」
何年もたった今でも、爺さまの満足げな顔つきと、「美女」の画ははっきりと思い出せる。
儷と厦を戦争状態にしてまで、爺さまは何がしたかったんだ。好きな女とたった一度寝て、それで捨てられ、満足だって。
父上が理解できないと仰る気持ちもよくわかる。
爺さまへのあてつけか、父上は後宮を多くの女たちでにぎわし、大勢のきょうだいたちを遺した。それが、今は頭痛の種になっている。
爺さまと父上。
お二人を見てきて、おれは大変慎重になった。
女人におぼれれば、国を傾ける。
遠く祖先の竜女の血が、淫乱に狂わせるのだと。
半分は本気でそう信じている。
だから、周りの者に案じられるほど、その道のことは無視している。
歩いてみることもある。でも、誰かにしみじみと情けをかけて、道草を
食ったりなどはしないと決めた。




