ハナ
男がいる。
男は生まれてから、何一つ不自由を感じたことがない。
だがあるとき、五体を奪われ、ただの物体になる。
空虚な白い円になるのだ。
それが「オレマン」である。
あの方は、何を思って、おれにそのような話をなさったのだろう。
あの方、クム・セナは、おれの命の恩人だ。
おれは、小国の王の子だった。
王の子といえど、ただそれだけのこと。
八番目の息子は、いくばくばかの貢物と一緒に大国に送られた。
儷国には、おぞましい妖魔がいる。
妖魔は生け贄とする子どもを集め、そうして生き血をすすって目玉を食らう。妖魔は力を増し、無敵の軍隊を守護するのだと。
生まれて初めて風呂というものにつかり、おぼれ死ぬかと思った。
おれの生まれ育った場所では、水は貴重なものだった。
つんと鼻をさす水の香り。
浮かべられた赤い花びらを手にすくってみると、黒ずんだおれの手のひらに、くたりととどまった。見たことのない花だった。
この国は、見たことのない、珍しいものであふれていた。
おれがそれまで生きてきた、十数年。
空にたなびく雲、春に芽吹くみずみずしい青草。
若馬たちのたてがみが風になびくさま。
よく研がれた父の刀。
美しいものは、それですべてだと思ってきた。
しかし、ちがった。
クム・セナ。
あのお方は、初めて会ったとき、床にはいつくばっていた。
周りの女たちが、ののしりの言葉と一緒に、汚物をあのお方の頭からぶちまけていたのだ。
じっと顔をうつむけ、初めは泣いているのかと思った。
おれは、声をかけずにはいられなかった。
大丈夫かと。
あのお方は、顔を上げ、おれをごらんになった。
白い顔に、べったりと糞がはりついている。それをぬぐいもせずに、あの方はおっしゃったのだ。
「ハナ」
何のことやら、わからなかった。
「なぜだ。なにゆえ、わたしに声をかけた」
意味なんてない。ただ、気にかかっただけだと。
「妖魔の血筋と関われば、目をつけられるぞ。ゆきなさい」
足が動かなかった。
行けといわれても、どこへ行けと言うのだ。
日が昇る前から、日が落ちるまで、ひたすらにつめたい石の床を磨き、よくわからぬ異教の神に祈りを捧げ、そして、いつか、生け贄として捧げられる子どもが、どこに行けと。
汚物でまみれた床を磨き、何もなかったようにするだけだ。
手を差し出すと、驚いたようにあの方は見上げてきた。
「ハナ」
それが感嘆のつぶやきだと知ったのは、あとのことだ。
ありえないこと。そういう意味だと。
敵だらけの神殿で、あのお方は暮らしておられた。
あのお方を、無視して避けるか、貶めるか。
神殿でのお立場は、たいへん微妙なものだった。
「お手を」
白い手が、おれの手をしっかりとつかんだ。
うれしそうに、笑みかけてくださった。
顔はすこし赤い。おれはなんだか妙に浮き立つような気持ちになって、だいぶ困った。
もの言いたげな瞳をもっと近くでのぞきこんでみたいといういたずら心すらおこって、さすがに失礼かと思って目をそらした。
糞にまみれてさえ、この方は。
その日、そのときだ。
生まれて初めて、人を麗しいと思ったのは。
男の腕の中で、隊長がぐったりと目を閉じられた。
まさか、と。
ありえぬことだ。
隊長が、まさか。
男は隊長を軽々と横抱きにした。
胸に、深々と突き立っているのは隊長の短剣だ。
何もかもが、吹き飛ぶ。
すべてのことは、この一大事の前には些細なことだ。
怒りと、焦りに突き動かされ、おれは剣を抜いた。
だらりと力なく下がったあのお方の腕。
「何をした」
もっと用心するべきだった。
怪しい男をこの方のおそばに近づけるのではなかった。
「殺したのだ」
金の目を細めて、男は笑った。
「今一度、生かすために」
「ほざくな」
斬りつけた。手応えがあった。
なんということだ。
男は、青菜一本でおれの剣を受け止めた。
あまりのことだった。
こんなもので、どうして。
ふざけてる。
「なかなかいい。さすが、セナだな。手練れをそばに置いておる」
ネギを放って、男はきゅうにまじめな顔をした。
「しばし、預かる。厦国への使いはそなたがせよ」
隊長の胸元に手を入れて、血に染まった文書をとりだした。
それをおれの足下に投げてよこした。
「何を」
「目覚めたら、かならず地上に返そう。だから、そなたは行きなさい」
だれか、引き留めてくれ。
あのお方を、見失ってしまう。
「セナ様」
かれた、小さな声しかでない。
おそろしかった。
行かないでくれ。
天でも何でもいい。
「セナ」
頼むから、奪わないでくれ。
おれは、初めて。
生まれて初めて、だれか、人を、麗しいと思った。
そのときから、世界は美しいものであふれたのに。
あなたの背に流れる黒髪を見ているだけで、おれは、憂いすら忘れられるのに。




