2話「怖いお姉ちゃん」
『今日一日、私は何の役に立てばいい』
樹里の問いに、陽菜も美園もすぐには答えなかった。
先ほどまで笑っていた二人の表情が、不自然なほど静かになっている。
『……何だ』
『いや』
陽菜は何かを言いかけ、首を横に振った。
『それを考えなくていい日が、休日なんだけど』
『何もせず、一日を浪費しろということか』
『ほら、もう言い方が休む人のものじゃない』
『総長。とりあえず着替えて』
美園が立ち上がり、迷うことなく寝室へ向かう。
『待て。なぜ私の寝室へ入る』
『服を見るだけ』
『今着ている』
『それは仕事着』
『私服だと言ったはずだ』
『総長の判断は信用できないから』
美園が寝室の扉を開け、陽菜もその後に続く。
樹里は二人を止めようとしたが、一歩遅かった。
開かれたクローゼットの中を見て、陽菜が黙る。
美園も黙った。
白、黒、紺、灰色。
形に多少の違いはあるが、並んでいるのは仕事でも着られる服ばかりだった。
『総長』
『何だ』
『色、四つしかないよ』
『服として必要な色は揃っている』
『そういうところなんだよね』
美園がハンガーを順番に確認していく。
背中が大きく開いた服を避け、比較的柔らかな生地の黒いニットを一本抜き取った。続けて、細身ではない淡い灰色のパンツを選ぶ。
『今日はこれ』
『普段と大差がない』
『大差があるの。総長には分からないだけで』
『私の服だぞ』
『じゃあ、自分で休日らしい服を選んで』
そう言われ、樹里はクローゼットを見た。
仕事へ行かず、商談相手にも会わず、誰かに信頼感を与える必要もない日に適した服。
基準が分からない。
樹里が答えを出せずにいると、美園が勝ち誇ったようにニットを差し出した。
『はい。私の勝ち』
『何の勝負だ』
『早く着替えて、総長』
二人に追い出されるように寝室へ入った樹里は、渡された服へ着替えた。
鏡の前に立つ。
確かに仕事へ行く格好には見えない。
だが、だからといって何が変わるのかは、よく分からなかった。
リビングへ戻ると、陽菜が樹里を上から下まで眺めた。
『似合うじゃん』
『私の服だからな』
『自分で選んでないけどね』
美園が付け加える。
二人はようやく樹里を外へ連れ出した。
向かった先は、電車で数駅離れた大型のショッピングモールだった。
休日の館内は多くの人で混雑している。家族連れや若い男女が目的の店へ向かい、その間を買い物袋を持った人々が行き交っていた。
樹里は入口に置かれた案内板の前で足を止める。
『先に回る順番を決める』
『決めないよ』
『効率が悪い』
『効率を求めないって書いたでしょ』
陽菜に言われ、樹里は「総長休日更生計画」の三項目を思い出した。
成果を求めない。
目的も決めない。
空いている店へ入り、気になったものを見る。
樹里にとっては、混雑した道路へ地図も持たずに出ていくようなものだった。
『少なくとも昼食の時間は決めるべきだ』
『お腹が空いたら食べる』
『混雑する』
『待てばいいじゃん』
『その待ち時間に別の用事を――』
『総長』
陽菜と美園が同時に呼んだ。
『……分かった』
納得はしていない。
だが、二人がそうしたいのなら従うことにした。
最初に入ったのは、女性向けの衣料品店だった。
樹里が選んだわけではない。美園が店頭に飾られた服を見つけ、そのまま入っていっただけである。
『総長、これ着てみて』
美園が持ってきたのは、淡い青色のブラウスだった。
樹里は値札と洗濯表示を確認する。
『自宅で洗えない』
『最初に見るところがそこ?』
『手入れに費用がかかる。着る場面も限られる』
『似合うかどうかを見てよ』
『似合っても、使用頻度が低ければ購入する意味がない』
陽菜が近くの棚から別の服を取ってくる。
『じゃあ、こっちは?』
『袖が広すぎる。作業の邪魔になる』
『休日に何の作業するつもりなの』
『例えば食事の際――』
『いいから、一回着てきて』
二人から服を押しつけられ、樹里は試着室へ入った。
着替えるだけで、なぜこれほど時間がかかるのか。
疑問を抱きながらカーテンを開ける。
淡い青のブラウスに、濃い色のロングスカート。
自分ではまず選ばない組み合わせだった。
樹里が二人を見る。
陽菜も美園も黙っていた。
『問題があるなら言え』
『……ない』
『では、なぜ黙る』
『似合いすぎて、ちょっと腹が立っただけ』
『意味が分からない』
少し離れたところにいた女性店員が、控えめに近づいてきた。
「とてもお似合いです。お顔立ちがきれいなので、明るいお色も映えますね」
『そうですか。ありがとうございます』
樹里は会社にいるときと同じ表情で答えた。
店員が離れると、陽菜が小さく笑う。
『褒められたのに嬉しくないの?』
『店員として妥当な接客だ』
『総長って、昔からこういうところ変わらないよね』
『何がだ』
『自分がどう見られてるか、全然分かってないところ』
樹里は鏡へ視線を戻した。
服は自分の身体に合っている。店員も似合うと言った。陽菜と美園も同じ判断らしい。
ならば購入しても問題はない。
『これを買う』
『決めるの早いね』
『三人の意見が一致している。迷う理由がない』
『そういう決め方も、やっぱり総長だよね』
何がおかしいのか分からないまま、樹里は着替え直した。
店を出てからも、二人は気になった場所へ次々と足を向けた。
雑貨店に入り、何も買わずに出る。
香水を試し、菓子の試食を受け取り、期間限定だという飾りつけの前で立ち止まる。
樹里は、そのたびに目的を尋ねた。
二人は、そのたびに目的などないと答えた。
何も購入しなかった店を出ても、陽菜と美園は楽しそうだった。
樹里にはまだ、その感覚が分からない。
それでも、理解できないからといって不快ではなかった。
二人が次にどこへ入るのかを考えながら歩いていると、小さな泣き声が耳に届いた。
樹里は足を止める。
通路の端。
店舗の柱の陰に、五歳ほどの女の子が一人で立っていた。
胸に小さなシール帳を抱え、何度も周囲を見回している。近くに保護者らしい人間はいない。
陽菜と美園も気づいた。
『迷子かな』
陽菜が言い終える前に、樹里は女の子の前へ向かっていた。
少し距離を空け、膝を折る。
『名前は言えるか』
女の子が顔を上げた。
涙の溜まった目で樹里を見つめ、身体を固くする。
『母親と最後にいた場所はどこだ。服装は覚えているか』
女の子の唇が震えた。
返事はない。
代わりに、先ほどより大きな涙が頬を伝った。
『総長』
追いついた陽菜が、樹里の肩を引く。
『迷子に聞き込みしないで』
『必要な確認だ』
『その顔で一気に質問したら怖いでしょ』
『普通に聞いた』
『総長の普通は、普通じゃないの』
陽菜が女の子の前にしゃがむ。
『びっくりさせてごめんね。このお姉ちゃん、怒ってるんじゃないから』
女の子は陽菜の陰から、樹里を見た。
「……こわい」
『ほら』
『声を荒らげてはいない』
『そういう問題じゃないよ』
美園も女の子の隣へ腰を落とした。
『お母さんと来たの?』
女の子が小さくうなずく。
『どこではぐれたか、分かる?』
「……くまさん」
『熊?』
「おっきい、くまさんのところ。ママが、ここでまっててって……」
樹里は館内へ入ったときに確認した案内図を思い出す。
二階中央の催事スペースに、大型の熊のぬいぐるみが展示されていた。ここからさほど離れていない。
女の子が自分で移動したのではない。
保護者に言われた通り、その場で待ち続けている可能性が高い。
『美園。案内所へ連絡しろ。母親が届け出ているか確認してくれ』
『分かった』
『陽菜は、この子とここにいろ』
『総長は?』
『周囲を確認する』
言ってから、樹里は「誰かの世話をしない」という禁止事項を思い出した。
だが、泣いている子供を前にして守る理由はない。
そんな規則なら、初めから従う必要もなかった。
樹里が立ち上がろうとしたとき、小さな手がニットの袖を掴んだ。
女の子だった。
「いかないで」
怯えた目は、まだ樹里を怖がっている。
それでも、その手は離れなかった。
樹里は足を止め、もう一度同じ場所へ膝をついた。
『分かった。ここにいる』
今度は質問をしなかった。
何を言えば安心させられるのか、樹里には分からない。
だから、ただそこにいた。
陽菜が女の子へ話しかけ、美園が案内所へ向かう。
樹里は通路の先へ目を配りながら、袖を握る小さな手が離れないよう、動かずに待った。
数分後。
「美結!」
人混みの向こうから、一人の女性が駆けてきた。
「ママ!」
女の子が樹里の袖を放し、母親の胸へ飛び込む。
女性は娘を強く抱き締めたあと、三人へ何度も頭を下げた。
「ありがとうございます。本当に、ありがとうございます」
『無事でよかったです』
樹里が答えると、母親の腕の中にいた女の子がこちらを見た。
そして母親から下りると、樹里の前まで戻ってくる。
胸に抱えていたシール帳を開き、花や動物が並んだ一枚のシートから、小さなシールを剥がした。
「こわいおねえちゃん」
隣で陽菜が吹き出しそうになる。
樹里は女の子を見下ろした。
「ありがとう」
差し出された小さな指先。
その上に載っていたのは、赤い薔薇のシールだった。
樹里の手が、わずかに止まった。
薔薇。
かつて自分たちが名乗った名前。
誰も近寄らせないために掲げ、仲間を守るために背負った名前。
そして今も、服の下に残っている。
背中に刻まれた黒と赤の薔薇と、Rose girlsの文字。
特攻服は脱いだ。
だが、あの日々まで脱ぎ捨てたわけではない。
樹里は、差し出された赤い薔薇を見つめた。
それから、壊れ物を扱うように指先で受け取った。
『……そうか』




